“ボキャヒン”


この意味が分かるだろうか?

これは、私のことである。

今まで「ほんまボキャヒンやな」と上司に散々言われてきたが、それをさら~っと受け流していたのは、自分で感じつつも、まあそれほどボキャヒンじゃないだろうと、心のどこかで安心している部分があったから。


でも、今日ほど、自分が“ボキャヒン”であることを、痛感したことはない。

そう、認めちゃったんだな。


ご存知の人も多いのだろうけど、日経新聞の日曜日版には「半歩遅れの読書術」という書評が掲載されている。

先日までは平田敏子さんという方が書評を書いていたのでけれど、

その先日の内容に衝撃を受けた。


なぜか?


紹介していたのは「蜻蛉日記」・・・・を近代風にした室生犀星の「かげらふ日記遺文」

その内容、言葉の表現、


底をさらうような日本語で表現するなんて」


と平田さんガ評するくらい、日本語を美しく使って書いているらしい。

ちなみに、その「かげらふ日記遺文」は既に絶版。

古書で探すしかない。


さらに、「蜜のあはれ」についても平田さんは記載しており、その本の面白さや登場人物が生き生き表現されていることとかを紹介しているのだけど、彼女は


「かわいくてコケティッシュな・・・・」


とか


「・・・・・とような、ぬらぬらとした表現ができるのか」


とまあ、私の想像しえない日本語を使って、「蜜のあはれ」の内容を紹介している。


その表現に私はノックアウト。


「室生犀星の、その本を読みたい!!!!!」


という気持ちにすごく駆られてしまうほどの文章力に圧倒。

そして、自分の表現力不足を実感すると同時に、悔しさも込み上げてきた。


平田さんは作家である。

「作家だから表現豊かだろうし、それは当然じゃない?」

と思う人もいるだろう。

そう、作家は表現力が大事なのである。


だけど~僕に~はピア~ノがない~音譜ではないが


「だけど~わたし~には表現力がない~ きみに~感じさせ~る文章を現せない~」


である。

そう、“ボキャヒン(ボキャブラリーが貧弱)”。

そして、冒頭部分の気持ちに至ったわけ。


悔しいなあと思ったのはそれだけではない。

「本を読んだ感想について、語り合う」ということが、全然できなくなっていたから。


中学までは本当に『本の虫』だったけど、高校に入学して全然読まなくなった。

読まなくなった理由はよく分からない。

でも、まあテストの課題で芥川龍之介の「地獄変」や夏休みの読書感想文で辺見庸の「もの食う人々」とか読んだりはしていたけど。

自分で積極的に買った本は・・・・・


「パラサイト・イヴ」

「超勉強法」


くらい。

そして、大学生になって、もっともっと読まなくなった。

理由は簡単。

置き場がないから。

一人暮らしして、本棚がなくて、本をしまう場所がないから、初めから購入しない。

そして、本屋からは遠のいていった。


社会人になって、ビジネス書やらマーケティングの本やら自己啓発の本を読んだりしているけれど、

そういうのと小説を読むということはやはり違うなあと感じる。

別に小説でなくてもいいのだろうけれど、「心に感じる何か」というものを汲み取ったり、自分が経験し得ないことを感じ取ったり、登場人物とどうかしたり・・・・というのは、やはり小説やエッセイ、ドキュメンタリーかなあと思う。


哲学書や思想書でもいいけどさ。


ともかく、自分は大学生のときに暇だったのに(バイトは忙しかったけど)、なんで本を読まなかったんだ、とすっごく感じていたのですよ、社会人になってから。

それを今日、改めて感じさせられた。


本を読むと、そこに書いてある表現を覚えたりするから、やはり自分の中の表現力の幅が広がるし、深みも出てくると思うのですよ。


まあ、いつまでもくよくよしていても仕方ないから、今から読んで自分のなかの表現力を広げたいなあと思うわけですが。

そうして火がついた私は、帰宅してアマゾンでいろいろ検索かけて購入してしまったのでした。。。。


あ~、新しい本棚買わないと。もっともっと大きいの。

小学生くらいのころ、本棚がいっぱいある書斎を持つことが夢だったなあ。

そんなお家に住みたいなあとやはり思うのです。