相方みかんせいじんは、よくもまあと思うぐらいたくさん本を読む。おかげで家は本だらけだ。
かくいうわしも、小中学校時代は学校の図書館中の本を読みつくすんじゃないかというぐらいの勢いで本を読んだ。大学では日本文学科に入ったのだが、そのあたりからぱったり読書量が減って、会社に入ってからは更に減った。
事実は小説よりも奇なり、と言うが子供の実生活など限られている。ネットもない時代、本は手軽なワンダーランドだった。大人になって、世の中には本よりも面白いことがたくさん待っているから本を読まなくても良くなったというのは寺山修司をダシにした言い訳だ。しかし、ある時から「読んでくれ、と誘っている本が少なくなった」というのは本当だ。
筒井康隆の短編に、テレビを観すぎた男に視聴率の神様が憑りついた話があった。その話のようだが、ある時から本屋に入ると、「これは絶対面白い」というのが分かるようになったのだ。本の神様が憑りついたのかもしれない。
それは作家によらないし(もちろん外れのない作家はいるが)、傾向に脈絡も全然ない。そして若さのきらめきという一瞬の才能はアンテナにひっかけてくれないし、ベストセラーも関係ない。だが、わしにとっては誘ってくる本は面白いものばかりで、外したことは多分ないと思う。
なので、相方みかんせいじんが買う本を見て、読んでもないのに申し訳ないのだが
「ごみのような本をたくさん買うなあ」
とちょっと呆れ風味である。果たして聞いてみると面白いの本もあるが面白くないものも多いようである。若い頃であれば、ムダも人生のうちだし外れを多くひいてこそあたりの喜びがある、と思ったものだが40も半ばを過ぎるとムダを整理して死ぬ準備を始める頃なのだから、
「つまらないなら途中で止めればいいのに。」
と思う。そのように相方に言ってみると、
「百田尚樹さん(『永遠の0(ゼロ)』の人ですね。あれは良かった)のようなことを言うなあ。
でも、せっかく買ったんだからお金がもったいないじゃん」
と言う。つまらんものにかかずらわってる時間の方がもったいないわい。
そんな相方が、ある本で「時間がムダだった」とまで怒っていたので念のため聞いてみた。
「・・・。あのさ、エドガー・アラン・ポー読んだことある?」
「?」
元ネタを知らなきゃ面白さがわからんだろうな。読んだが怒るほどの本ではないぞ。
その本は、「蘆屋家の崩壊」だった。津原泰水さん、相方がツイッターでけなしてごめんなさいね。
ヤツの場合、江戸川乱歩もどのぐらい読んでいるか怪しいものだ。とりあえずミステリーの古典をいくつか勧めてみようと思う今日この頃。
本日の結論:結局家が片付かないという言い訳です。