ヴューダーンタ哲学と汎神論
 一、ヴェーダーンタ哲学によれば、

ブラフマン(神)だけが実在で、残りは

すべてマーヤー(幻影)である。

人の魂は神と同一だが、無明のために

これが分離しているようにみえるに

すぎないというのである。これが事実なら、

神も幻影に従っていることになる。

このようなものは神ではない。神は事実、

どんな幻影からも自由であり、何もかも

お見通しなのである。ヴューダーンタ哲学者は

また、帰依者は深いサマーディ(黙想)の中で

知により幻影を脱する、とも説く。ここで疑問が生じる。

いったい、すべてが幻影であるというのなら、

サマーディに浸る帰依者とそこから出てくる知識が

幻影でないと、どうしてわかるのだろうか?


 二、ヴェーダーンタ哲学が真理である

ということになれば、神もまた

------人は神と同じであるから-------
進化の途上にあり、幻影と無常によって

完成を求めていることになる。

マーヤーがこのようなことを神に対して

しないというのなら、マーヤーのそもそもの原因

とは何なのか、どんな活動の結果として

人はマーヤーに取り込まれるに至ったのか、

マーヤーの目的と究極的益はどこにあるのか

ということについて、ヴェーダーンタ哲学者は

語る義務があるだろう。実際、神は

万物に在り、万物は神に在る。

だからといって、神イコール万物でも、

万物イコール神でもない。

創造者と創造物を混同する人間が

無明に沈み込むのである。

 三、罪とその結果は、

どれほど危険であっても、

われわれの外にはない。神と

神から不滅性を授けられた者たち以外、

外のものは何一つないのだ。


別なものが

神から離れて独自に

存在できるとすれば、神と同じ

無限の属性をもっていることになるが、

絶対者はただ一人であるから、

これは不可能である。

神の存在は、理想的な秩序が

永遠に保たれることを保証する。

神の性質に対立するものは神の前で
いつまでも存在はできない。


悪と虚無に服しているため

うめき苦しんでいる被造物すべてが、

滅びの束縛から

神の子らの栄光の自由へと

永遠に解放される、

というのはこのためである。

二、光の前に何かをおけば影ができる。月食は、

太陽と月との間に地球が入ることによって起こる。
何かがわれわれに影を投じた場合、影の原因は外の

ものにあるので、われわれには責任がないことになる。


影の影響は受けても、影への責任はない。だが、

自分の心から雲のように立ち昇り、天を覆って

闇を作り出すような悪念に対しては、

われわれは責任がある。


引用以上。また、少し書きます。怒っている人と

同じ空間にいれば、ピリピリした空気を感知する

人もいるでしょう。不満を持てば、暗雲のように

想念が人を取り囲み、本来美しい魂の輝きを

自ら覆い隠してしまいます。

人の魂は、星々のように輝く光の

ような存在と、臨死体験をされた方が、

語っておられます。生まれ来る赤ちゃんの

魂が遊舞するのを見たこともあります。

輝く命というのは良い表現ですね。

心の闇が、オーラの暗い部分として、

投影されることも本当にあります。人が互いに

輝き合えるように、澄んだ心でいられるよう祈るばかりです。

 五、進化論を奉じる科学者、哲学者は

自然陶汰による適者生存を口にする。ところで、

幾百万とも知れぬ回心した人々は、神の淘汰において

不適者生存という事実があることを証明している。

酒乱、暴行犯、人殺し、泥棒らが罪と悲嘆の深淵から

救い上げられ、平和と歓びの新生命を受けている。

罪人を救わんがため世に降りてこられた

イエス・キリストを通して得られる救いがここにある。


原  罪

 一、親の病が子に遺伝することはあり得ても、

親が怪我により手足、目を失ったからといって、

子まで手足を損ない、目が不自由になるようなことはない。

原罪にも同じことがいえる。善かれ悪しかれ、

親の性質すべてが子に受け継がれるわけではない。


子の性格の大半は、意識して行動した結果である。

子が親の性質を何もかも受け継いでいる

ということになれば、自分の行動への責任は

負えなくなるだろう。能力や性格はほんの僅か

受け継がれるにすぎない。成長と成熟は、

大部分自分の努力によるのである。

四、倣慢は罪である。倣慢な人間は自分を

実際以上の人間と思い込む。こうして、神の

御恵みを失い、罪に陥り、自らの霊魂を滅ぼす。


虚偽は、真理にたてつくことなので、これまた罪である。

嘘ばかりついている人間は次第にその影響を被り、

しまいに自分まで偽るようになる。事実を常に疑い、
内なる感覚も外なる感覚も信じられなくなる。

ついには、神の愛と御恵みさえ疑い、自分の霊的生命
と神のもっとも豊かな祝福を失することになる。


貪欲も罪である。貪欲な人は創造主を見捨て、

創造された物に満足を求めるようになる。


泥棒は罪である。泥棒は他人の稼ぎを奪い、

他人の損失に歓びを求める。われわれは

こうしたすべての罪を懐悔し、救いを求めることが

必要である。神の聖旨が天で聖徒と天使との間に

行なわれているように、地上でわれわれの

生活の中にも行なわれるために。

 二、正しく罰し許すことができるのは、神のみである。

神のみが人間の内的必要と事情とを理解し許しと

処罰の結果を知るからである。人間が罰すれば、

処罰の目的が達せられない場合が多い。それは、

悪者の内的必要と事情を知らないからである。

罰することが善よりも禍を生み、許しがほとんど
奇蹟的な方法で人々を改心させる場合がある。

また、許しが悪業への機会をいっそう開き、

処罰が犯罪者の更生に効き目を表わす場合もある。

神のみが人間の本当の性質を心得、彼らの

必要に従って罪の原因と結果から

救い出すことができるのである。


 三、真実の永遠の歓びを得ることが魂の目的である。

罪のような誤った手段によってこの目的を遂げよう

とすれば、幸せを歓ぶ魂の能力そのものを

破壊することになる。人の中にこのような

歓喜する力と感覚をお造りになった神は、

神との交わりの中で人が永遠の幸せを

楽しむことを願っておられるからである。これが救いである。

懺悔と救いの因果律


 一、例えば、ある人に石を投げて

彼が死んだとしよう。自分の罪を懺悔することによって

二度と同じ過ちを繰り返さないとしても、人に与えた害は

取り返しがつかない。死んだ人の命はってこないのである。

本人を許し、また突然の死によって被った喪失を

来生で取り戻せるよう計らってくださるのは神だけである。

このようにして、加害者も被害者も共に救われるのである。

 五、真理には沢山の側面がある。人間誰もが、

神のお与えになった能力に応じて真理のさまざまな面を

明らかにし、あるいは表現する。同じ木でも、その実に

引かれる人もいれば、可憐な花に心引かれる人もいる。


つまり、自分の心に訴えかけてくる面に価値を

認めるわけである。そこで、哲学者も科学者も、

詩人も画家も神秘家も、自分の理解力と気質に

応じて、真実のさまざまな側面を定義することになる。


一人の人間が実在の全貌を把握し、すべてに

わたって述べ立てることなど不可能である。


 六、あるものが真実であるか否かを知るためには、

違った面からそれをみてみる必要がある。さもないと、

誤解と間違いが生じうる。例えば、片目でもって

棒を縦に眺めれば、その長さがわからない。
棒の真実を把握するには、違った角度からも

みる必要があるわけである。


全身全霊から真実を探求しそれを手にする者は、

真実を探り始める前に、真実それ自体が

至福の交わりに入らせようと彼を探し求めていたことを

知る。それは、母を捜している迷子が、母の腕に抱き
すくめられた後に、自分が思うよりもはるか前から、

母が自分を捜していたのを知ることと変わりない。

 四、真理あるいは真実は、その実によって知られる。

真実に従って行動する人は、行動する間にも
その結果を楽しみ、さらに未来において

究極的善の実を結ぶことになる。


真実のみが霊魂の渇きを癒せるのである。


 ところで、人は罪に染まって堕落しても、

真理を好み識別する。例えば、嘘つきは

自分は嘘をついても、人が嘘をつくことを好まない。


また、自分がどれほど不正であっても、

他人の不正に心悩ます者がいる。これは、

たとえ無意識にせよ、彼らの性質の中に

真理と正義への願いと識別力があること
を物語っている。それは、真理が

彼らを創造したからなのである。


真理に逆らって行動すれば、人は苦しむ。

それは彼らの性質に逆らうことであり、

また生みの親たる

真理の性質にも逆らうからである。


 二、「誰でも持っている者は与えられて豊かになり、

持たない者は持っているものまで取り上げられる」


とキリストはいわれた。何も持っていない者から、

どうやって取り上げるというのだろうか。

怠けていたばかりに才能と責任ある仕事を

取り上げられ、失ってしまったとしても、

真実と虚偽とを見分ける力は残されている。


この識別力すら使わなかったがために、

取り上げられてしまったとすれば、

良心は鈍化し、死んだに等しくなり、

もう何も残らなくなるということである



以上、引用です。

久しぶりに少し書きます。

「与えた物だけが、いつまでも残る」

「与えれば、与えられる」などと言いますが、

目に見えない親切心など、人に与えれば与えるほど

増えていく宝の一つでしょう。与えるほどに増し加えられ、

持っている者は、更に与えられる「豊かさ」に数えられます。

誠実な人は、類を友を呼ぶ現象で、誠実な仲間を得ます。


実は、私も一度、儲けたいと強く思ったことがあり、すると、

人の欲を利用して儲ける会社がすぐに現れて来て、

騙されてしまった経験があります。つまり、想いの

波長が合う人同士が引き寄せ合っています。


喜んで与え、喜んで与えられる関係の中に生きていくのが、

人間的で健全な状態と解釈したいです。持っている物を

有効に活かせる人には、更に任せられていく仕組みが

実際にあります。良心も判断力も常に研ぎ澄まして

目先のことに左右されず、豊かな人生を

歩んで行きたいですね。