パン屋の厨房

ほぼ途切れることなく

喫茶部の皿が下げられてくる

何回ともなしに

おびただしい皿が什器に並べられ

食洗器の中に入っていく…

 

最初は皿を一枚一枚拭いて

元の場所に丁寧に戻していた

 

だんだん、要領がつかめてきて

洗いあがった皿を什器の上で拭き上げ

並べて人がすいてきた瞬間にさっと棚に仕舞う

 

我なりにスマートになったと思う…

 

いろんな仕事の中で「効率」を意識してやってきたけれど

 

「効率」の本来の出どころは

「思いやり」じゃないかとふと思った。

 

こうしたら、次の人が使いやすいよね

こうして置いたら、親切よね

こうしたら、わかりやすいよね

 

そんなちょっとした思いやりが発祥で

 

それが積み重ねられて

不文律のような「形」になって

受け継がれて

「掟」のようになって

人を縛るようになってきたんじゃないかと…

 

要領が悪い人

「掟」が上手く呑み込めない人は

その場に溶け込むのか大変

仲間から白い目で見られる

冷や汗かいて覚えようとするが

心が固まってしまって

パターンがうまく入ってこない

 

こんなことで「心」故障させてしまう人がたくさんいるんじゃないかと

 

「効率」がそもそもが思いやりのカタチだったのが

今はそのほとんどが「経済効率」に置き換えられて

心や温もりのない観念に縛られている

 

そもそも「効率」が思いやりの一つのカタチだと意識したら

 

一つ一つに心が働き

ユニークな発想で発展して

カタチが変化していくんじゃないかと

そう思っている。

 

むろん、初心者はカタチがあってこそ学びの第一歩かもしれないけれど

 

社会が「効率」を人間より重視してしまわないようにと

願うばかりで…                  

 

効率を優先した思考は

思いの外、日常の生活に浸み込んでいて

人と人の間をギクシャクさせたり

無駄のない効率よい生き方ばかりを追い求め

 

無駄を楽しむ遊びの感覚

無駄から派生する発想力

損得を外した無限の可能性を

 

狭めているようにも思う。

 

少しの失敗や、損失さえも

笑って明日の肥やしにできるくらいの

おおらかな時代になればな、と

 

そして、

完全じゃなくていいと

(誰も完全じゃなくてはならないと言っていないが)

誰もが、不全であると

誰もが、できないこともあるんだと

誰もが、できないことを責められない

 

できないことがあって当たり前

 

と思えるような社会になればいい、と思っている。

 

一生懸命できないことをなくすために力を注ぎ

次から次へとできないこと探しに翻弄されるより

 

できることしたいこと、心躍ることにじっくり取り組めるよう

 

そして、自分の魂を喜ばせられる自分であるよう、

 

そうであってほしい