もう息子たちと2年半も会っていない。

ふたりともその間に大学生になって、

いつの間にか成人を迎えていた。

 

そんなおめでたい時に一緒に祝うことができない

不甲斐なさを感じながらも

 

家族としての区切りがつかぬうちは

心が晴れず、会えないような気がしている…

 

そんな時、出先で障害を持つ子供の絵がアートになって

手ぬぐいや、バック、ポーチなどになっている作品に出会った。

自らの命の言葉が作品となって

多くの人に見てもらって

彼らの魂は喜んでいる

そして、彼らを見守る家族がどれだけ救われたろうか。

彼らの存在そのものを自他共に喜べるのだから…

 

自分の子供を心から肯定できる自分に喜べるから。

 

障害とは、存在そのものを認められない苦しさ、と思う。

 

社会が「違っている」と思い

家族は、「奇異な目で見られる」、「違いを認められない」おそれをいだき、

本人は「受け入れられない違和感」と「家族の戸惑い」の間で戸惑う

 

それが障害の正体だと思う

 

実は障害は

「ちがっている」のではなく

「そのようである。」

その一言に尽きるのだと思う。

 

ふと、帰りの車のハンドルを握りながら

小学生だった時の息子が

壊れた印刷機のように

ペンギンの絵を限りなく描いていたことを思い出す。

 

同じことを繰り返すのは

自閉傾向の特徴だったかもしれないけれど

 

焦点距離5センチで

見て描くというより、既に体がその動きを覚えていて

テンポと距離感で描くという描き方だったことを思い出す

 

言葉を発するような感じで絵を描いていた。

 

それを面白いと認めてくれる人の目に止めれば

面白いアート作品になっていたに違いないと思う。

 

それくらい彼のペンギンはユーモラスだった。

 

人生は出会いでいくらでも捉え方は変わる。

周囲の捉え方も変わる

自分自身のイメージも変わる、きっと。

 

いつ、どこで、そんな体験をするのか

 

その後の人生は大きくかわっていくのだろう…

 

それは「障害」があっても、なくても。