まず初めに、震災の被害に遭われた方や難病の方等からすると不快な想いをされるかもしれないので先に謝っておく。
今回の震災で、多くの尊い命が失われた。また地震や津波による爪痕も深く、(更に原子力発電所の事故も加わり)復興には随分と月日を要する事だろう。
当然私の所にも義援金の話が来た。勿論私も募金はしているのだが‥
この「募金」という事に少し思った事が有るのだ。
富山では「拡張型心筋症」という重い病を患っている患者の手術の為の募金を募っていた。海外で行う手術となり、1億円を超える莫大な費用が掛かるという。
幸い、この患者は必要な金額が集まり無事手術を受ける事が出来た。
さて、私はこの一生を終えるまでにどれ位の金額を稼ぎ、また必要とするのだろうか。
例えば、私が同じ症状として、1億円余りの金額で命が助かったとする。私にはその1億円の価値が有るのだろうか、という事だ。
私の場合、その金額に見合う生き方が出来るか正直疑問なのだ。つまり、私には1億円で命を救われる価値が無いと思うのだ。もし私が医者で、より多くの命を救う事が出来るならその価値は有るかもしれない。もし私が政治家で、より多くの命を救う法案を可決する事が出来るのならその価値は有るかもしれない。もし私がアーティストで、より多くの人々に生きる活力を与える事が出来るのならその価値は有るのかもしれない。しかし、私には誰を救う力も無い。下手すれば家族や友人さえ救えないかもしれないのだ。
命の価値は同等では無い。これは私の想いである。
先に例を挙げた拡張型心筋症の方々にも悪いとは思うが、1億円という金額が有れば何が出来るだろう?
震災の被害者へのかなりの手助けになる筈だ。1人の命を救う金額が数千、数万という人の命を救う事にならないか?更に言えば、アフリカ等で飢餓に喘ぐ人々なら、もっと沢山の人々を救えるのではないか?
命の優劣や価格等は、本来考えてはいけない事なのかもしれない。
私もこの様な事を考えつつも、例えば自分の家族や友人等が拡張型心筋症なら、結局私もその人物を救う為に募金を募るだろう。
何故なら、アフリカの飢餓に喘ぐ人々より、身近な者を救いたいからだ。これは見返りを求めているという訳では無い。顔も知らない他人より、暮らしに関係している仲間を助けたいと思うのは当然だろう。
しかし、私の中では上記の様な葛藤が常に有るのだ。
今回の震災に関しても同等の想いが有る。アフリカ等の発展途上国より、同じ国で有る日本の力に成りたいと思う。だが、同じ金額で助かる命の多さは‥
そして私自身、(同じ様な病気に対して、同じ様な災害に対して)寄付するしない(或いは、募金額に差が有る)という事が、自分でも納得がいかない。何気に人を差別している様な気がするのだ‥それなら初めから募金等しなければ良いのだが‥
結局どうしてもニュース等で取り上げられる大きな出来事に引っ張られてしまうのだろう。それが気持ちが悪い。
私は募金が悪いとは思わない。そしてその尊い御金は、人々の善意の塊だと言う事も解る。だが、その御金は別の遣われ方をした方が、より有意義なのではないかと言う自問自答が付いて回るのだ。
皆はどう考えておられるのだろう。宜しければ聴かせて頂きたい。
今回の震災で、多くの尊い命が失われた。また地震や津波による爪痕も深く、(更に原子力発電所の事故も加わり)復興には随分と月日を要する事だろう。
当然私の所にも義援金の話が来た。勿論私も募金はしているのだが‥
この「募金」という事に少し思った事が有るのだ。
富山では「拡張型心筋症」という重い病を患っている患者の手術の為の募金を募っていた。海外で行う手術となり、1億円を超える莫大な費用が掛かるという。
幸い、この患者は必要な金額が集まり無事手術を受ける事が出来た。
さて、私はこの一生を終えるまでにどれ位の金額を稼ぎ、また必要とするのだろうか。
例えば、私が同じ症状として、1億円余りの金額で命が助かったとする。私にはその1億円の価値が有るのだろうか、という事だ。
私の場合、その金額に見合う生き方が出来るか正直疑問なのだ。つまり、私には1億円で命を救われる価値が無いと思うのだ。もし私が医者で、より多くの命を救う事が出来るならその価値は有るかもしれない。もし私が政治家で、より多くの命を救う法案を可決する事が出来るのならその価値は有るかもしれない。もし私がアーティストで、より多くの人々に生きる活力を与える事が出来るのならその価値は有るのかもしれない。しかし、私には誰を救う力も無い。下手すれば家族や友人さえ救えないかもしれないのだ。
命の価値は同等では無い。これは私の想いである。
先に例を挙げた拡張型心筋症の方々にも悪いとは思うが、1億円という金額が有れば何が出来るだろう?
震災の被害者へのかなりの手助けになる筈だ。1人の命を救う金額が数千、数万という人の命を救う事にならないか?更に言えば、アフリカ等で飢餓に喘ぐ人々なら、もっと沢山の人々を救えるのではないか?
命の優劣や価格等は、本来考えてはいけない事なのかもしれない。
私もこの様な事を考えつつも、例えば自分の家族や友人等が拡張型心筋症なら、結局私もその人物を救う為に募金を募るだろう。
何故なら、アフリカの飢餓に喘ぐ人々より、身近な者を救いたいからだ。これは見返りを求めているという訳では無い。顔も知らない他人より、暮らしに関係している仲間を助けたいと思うのは当然だろう。
しかし、私の中では上記の様な葛藤が常に有るのだ。
今回の震災に関しても同等の想いが有る。アフリカ等の発展途上国より、同じ国で有る日本の力に成りたいと思う。だが、同じ金額で助かる命の多さは‥
そして私自身、(同じ様な病気に対して、同じ様な災害に対して)寄付するしない(或いは、募金額に差が有る)という事が、自分でも納得がいかない。何気に人を差別している様な気がするのだ‥それなら初めから募金等しなければ良いのだが‥
結局どうしてもニュース等で取り上げられる大きな出来事に引っ張られてしまうのだろう。それが気持ちが悪い。
私は募金が悪いとは思わない。そしてその尊い御金は、人々の善意の塊だと言う事も解る。だが、その御金は別の遣われ方をした方が、より有意義なのではないかと言う自問自答が付いて回るのだ。
皆はどう考えておられるのだろう。宜しければ聴かせて頂きたい。