ブログ仲間である「ぴより+」様が投票を募集し記事を投稿された内容である。
私は「正義」に投票したのだが、私以外は皆「平和」に投票された様だ。
非常に興味深い内容なので、掘り下げて考えてみた。
但し、質問自体が大雑把なので、簡単に「正義か平和、いずれかしか存在しない世界ならどちらを選ぶか」という結論とした。
つまり、平和で有れば正義が無く、正義が有れば平和が無いという極端な世界である。
さて、考える前に「正義」と「平和」の意味について考えてみよう。
国語辞典に由ると正義とは、
・正しい道義。人が従うべき正しい道理。
・他者や人々の権利を尊重することで、各人に権利義務・報奨・制裁などを正当に割り当てる事。アリストテレスによると、名誉や財貨を各人の価値に比例して分配する配分的正義と、相互交渉において損害額と賠償額などを等しくする矯正的(整調的)正義とに分かれる。また、国家の内で実現されるべき正義には自然的正義と人為的正義とがあり、前者が自然法、後者が実定法に繋がる。国家権力の確立した社会では、実定法的正義は国家により定められるが、これは形式化・固定化されやすい。そこで、各人がその価値に応じた配分を受け、基本的人権を中心とした諸権利を保障されるべしという社会的正義の要求が、社会主義思想などによって掲げられることになる。公正。公平。
・正しい意味。正しい解釈。経書の注釈書の名に多用された。
平和とは、
・戦争もなく世の中が穏やかで在る事(様)。
・争いや心配事も無く穏やかで在る事(様)。
という意味合いになる。
以上を踏まえた上で考えると強い正義の下にしか平和は在りえない。
ぴより+様が「正義と平和のいずれを選ぶかと問われたら、私は迷わず正義を選ぶ」と映画「大いなる陰謀」でルーズベルトが述べた台詞を取り上げておられたがこれは正しいと思う。更に強者でなければ正義を選べないのだ。
敗戦国である日本は悪だろうか?アメリカは正義だろうか?日本人は悪と言われても覆す事が出来ない。それは、勝ったアメリカが「アメリカにとっての」正義を振りかざす事が出来るからだ。
そして正義とは私達が感じる通り、人によって千差万別のモノだ。私の正義が貴方の正義とは限らない。例えば、A氏は、自分の家族が飢えて死にそうなら盗んでも、場合によっては人を殺しても家族を救うという。A氏の正義は「家族を守る事」だ。
B氏は、自分の家族が飢えて死にそうでも他人に迷惑を掛けない。それなら一家で心中するという。B氏の正義は「他人に迷惑を掛けない事」だ。
どちらが正しいとは言わないし、関係無い。どちらの言い分も判る。どちらにしろ葛藤も有るだろう。私は各々の決定した意志こそが正義だと思う。正しい道義であり、従うべき正しい道理だからだ。
よって正義の解釈は私にとっては結構曖昧である。自分の強い意志や信念で決断した在り方という考えだ。個人の価値観で変わるモノである。
平和は争いが起こらない状態という酷くあっさりした解釈となっている。
これが私にとっての正義と平和である。
因みに平和と豊か(裕福)や幸せ(幸福)等はイコールでは無いのは理解して頂きたい。
では、「強い正義の下」にも踏み込んでみよう。
「Peace」は英語で言う平和である。
語源を遡ると、ラテン語や古代フランス語になり、意味に「平和、協定、条約を結ぶ事、平定する事」等が含まれるらしい。
つまり、勝利した国にとっては、平和の意味はまた違うモノである。自国の取決めに敗戦国(弱国)が従う事が平和(平定)である。当然戦争は終了し広義でも「平和」となるのだ。日本も敗戦し平和になったと言える。
即ち平和とは、勝者によって敗者を支配する事、または強者が定めた事を弱者に押し付け無理に守らせる事とも言えるのではないか?判りやすく言うと植民地化が平和である。そして逆らう者がいなければ、それは争い事の無い本当に平和な世界だ。(逆らう者は己の正義を貫く者であり、勝てば革命者で英雄、負ければ反逆者で逆賊という存在か。)
少々戦争等から頭を切り離そう。では、今の狭い自分自身の感じ取れる世界として、平和しかなかったらどうなるか?
意志の無い、つまり野望の無い人間しか存在しない世界。毎日を平穏に暮らす。とても良い事に思える。しかし、人間的な感情が全く無い人形の様な、唯生きているだけの無価値な存在ではないだろうか?「切磋琢磨」さえ無いのだ。争わないから。
勉強さえ優劣の付く争いである。勝者は沢山の人生から自分の進む道を選ぶ事を許され、敗者はその選択肢も少ない。
例え7つの大罪と言われようと欲望、嫉妬、怒り等は全て力である。力とは正義に成り得るのだ。強者となり弱者に勝てるからだ。勝てば自分の意志を押し通す事が出来る。(これらの内容に関しては「人間は生まれながらにして善人か悪人か?」の投稿参照)
成長しない世界は滅びるしかない。平和だけの世界はそういう世界では無いだろうか?
勿論正義だけの世界が優れているとは言えない。強い者が勝つ弱肉強食の世界と言えよう。しかし、上に立つ為、皆が争う。優秀な人材が育成され、愚鈍な人間は淘汰される。こちらの世界の方が「活きている」感じがしないだろうか?
考えてみる程に、正義が資本主義的、平和が共産主義的に感じる。(「資本主義と共産主義」の投稿参照)
どちらが正しいという事は無いのだろうが、どちらかを選ぶならやはり正義を選ぶしかない。その方が辛くとも人間らしさに溢れているからだ。全員が人形の様に堕落した世界は平和かもしれないが、活きたいとは思えない。
そう思ったのは今、私が人形の様に日々を唯過ごしているからかもしれない。何かを成す訳でも無く、そう唯意味も無く平和に過ごしているのだ。勿論正義を振りかざす事も無く‥
平和と怠惰は似ている。変化が怖いし辛い。だが、何処かでその状態をよく想っていない自分がいるのかもしれない。
このような事を深く考える機会を与えてくれたぴより+様に感謝。(ぴより+様のブログ「日 和」へはトラックバックより訪問願いたい。)
私は「正義」に投票したのだが、私以外は皆「平和」に投票された様だ。
非常に興味深い内容なので、掘り下げて考えてみた。
但し、質問自体が大雑把なので、簡単に「正義か平和、いずれかしか存在しない世界ならどちらを選ぶか」という結論とした。
つまり、平和で有れば正義が無く、正義が有れば平和が無いという極端な世界である。
さて、考える前に「正義」と「平和」の意味について考えてみよう。
国語辞典に由ると正義とは、
・正しい道義。人が従うべき正しい道理。
・他者や人々の権利を尊重することで、各人に権利義務・報奨・制裁などを正当に割り当てる事。アリストテレスによると、名誉や財貨を各人の価値に比例して分配する配分的正義と、相互交渉において損害額と賠償額などを等しくする矯正的(整調的)正義とに分かれる。また、国家の内で実現されるべき正義には自然的正義と人為的正義とがあり、前者が自然法、後者が実定法に繋がる。国家権力の確立した社会では、実定法的正義は国家により定められるが、これは形式化・固定化されやすい。そこで、各人がその価値に応じた配分を受け、基本的人権を中心とした諸権利を保障されるべしという社会的正義の要求が、社会主義思想などによって掲げられることになる。公正。公平。
・正しい意味。正しい解釈。経書の注釈書の名に多用された。
平和とは、
・戦争もなく世の中が穏やかで在る事(様)。
・争いや心配事も無く穏やかで在る事(様)。
という意味合いになる。
以上を踏まえた上で考えると強い正義の下にしか平和は在りえない。
ぴより+様が「正義と平和のいずれを選ぶかと問われたら、私は迷わず正義を選ぶ」と映画「大いなる陰謀」でルーズベルトが述べた台詞を取り上げておられたがこれは正しいと思う。更に強者でなければ正義を選べないのだ。
敗戦国である日本は悪だろうか?アメリカは正義だろうか?日本人は悪と言われても覆す事が出来ない。それは、勝ったアメリカが「アメリカにとっての」正義を振りかざす事が出来るからだ。
そして正義とは私達が感じる通り、人によって千差万別のモノだ。私の正義が貴方の正義とは限らない。例えば、A氏は、自分の家族が飢えて死にそうなら盗んでも、場合によっては人を殺しても家族を救うという。A氏の正義は「家族を守る事」だ。
B氏は、自分の家族が飢えて死にそうでも他人に迷惑を掛けない。それなら一家で心中するという。B氏の正義は「他人に迷惑を掛けない事」だ。
どちらが正しいとは言わないし、関係無い。どちらの言い分も判る。どちらにしろ葛藤も有るだろう。私は各々の決定した意志こそが正義だと思う。正しい道義であり、従うべき正しい道理だからだ。
よって正義の解釈は私にとっては結構曖昧である。自分の強い意志や信念で決断した在り方という考えだ。個人の価値観で変わるモノである。
平和は争いが起こらない状態という酷くあっさりした解釈となっている。
これが私にとっての正義と平和である。
因みに平和と豊か(裕福)や幸せ(幸福)等はイコールでは無いのは理解して頂きたい。
では、「強い正義の下」にも踏み込んでみよう。
「Peace」は英語で言う平和である。
語源を遡ると、ラテン語や古代フランス語になり、意味に「平和、協定、条約を結ぶ事、平定する事」等が含まれるらしい。
つまり、勝利した国にとっては、平和の意味はまた違うモノである。自国の取決めに敗戦国(弱国)が従う事が平和(平定)である。当然戦争は終了し広義でも「平和」となるのだ。日本も敗戦し平和になったと言える。
即ち平和とは、勝者によって敗者を支配する事、または強者が定めた事を弱者に押し付け無理に守らせる事とも言えるのではないか?判りやすく言うと植民地化が平和である。そして逆らう者がいなければ、それは争い事の無い本当に平和な世界だ。(逆らう者は己の正義を貫く者であり、勝てば革命者で英雄、負ければ反逆者で逆賊という存在か。)
少々戦争等から頭を切り離そう。では、今の狭い自分自身の感じ取れる世界として、平和しかなかったらどうなるか?
意志の無い、つまり野望の無い人間しか存在しない世界。毎日を平穏に暮らす。とても良い事に思える。しかし、人間的な感情が全く無い人形の様な、唯生きているだけの無価値な存在ではないだろうか?「切磋琢磨」さえ無いのだ。争わないから。
勉強さえ優劣の付く争いである。勝者は沢山の人生から自分の進む道を選ぶ事を許され、敗者はその選択肢も少ない。
例え7つの大罪と言われようと欲望、嫉妬、怒り等は全て力である。力とは正義に成り得るのだ。強者となり弱者に勝てるからだ。勝てば自分の意志を押し通す事が出来る。(これらの内容に関しては「人間は生まれながらにして善人か悪人か?」の投稿参照)
成長しない世界は滅びるしかない。平和だけの世界はそういう世界では無いだろうか?
勿論正義だけの世界が優れているとは言えない。強い者が勝つ弱肉強食の世界と言えよう。しかし、上に立つ為、皆が争う。優秀な人材が育成され、愚鈍な人間は淘汰される。こちらの世界の方が「活きている」感じがしないだろうか?
考えてみる程に、正義が資本主義的、平和が共産主義的に感じる。(「資本主義と共産主義」の投稿参照)
どちらが正しいという事は無いのだろうが、どちらかを選ぶならやはり正義を選ぶしかない。その方が辛くとも人間らしさに溢れているからだ。全員が人形の様に堕落した世界は平和かもしれないが、活きたいとは思えない。
そう思ったのは今、私が人形の様に日々を唯過ごしているからかもしれない。何かを成す訳でも無く、そう唯意味も無く平和に過ごしているのだ。勿論正義を振りかざす事も無く‥
平和と怠惰は似ている。変化が怖いし辛い。だが、何処かでその状態をよく想っていない自分がいるのかもしれない。
このような事を深く考える機会を与えてくれたぴより+様に感謝。(ぴより+様のブログ「日 和」へはトラックバックより訪問願いたい。)