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「12RIVEN -the Ψcliminal of integral-」。「アダルトコンピューターゲーム6」の投稿でも述べたが結局購入した。現在プレイ中なのだが、「Ever17 -the out of infinity-」(「コンピューターゲーム4」の投稿参照)同様、思想的で難解な問いを求められる話となっている。
途中にいくつか私が昔考えた事の有る話が出てきたので、その事について述べようと思う。
(ゲームの感想等についてはまたいずれ投稿しようと思う。)
それが他我問題である。
難しく考えても仕方が無いので簡単に言うと、私が感じているモノと他人が感じているモノは本当に同じなのだろうか?しかし、心は自分のみで完結してしまっているので、他人との違いがわからないという事だ。

ゲーム作中では「人物Aの色相環が生まれつき赤から青へ120度ずれていた」という内容等で語られている。(色相環については画像1)
青は赤に、赤は緑に、緑は青に映る。更にイエローはシアン、シアンはマゼンダ、マゼンダはイエローに見えるという事だ。
その人物Aにとっては私達が赤だと認識している色が緑に見える事になる。しかし生まれてからずっとそうで、また教育によって、見えている色を(緑に見えていたとしても)赤だ青だと教えられている。つまり、色の違いは有れど認識に違いは無いので、やはり林檎は「赤い」のだ。(例の120度というのが解り難いのかもしれない。)

私が、こういった事を考えたのは、知り合いに色弱(色覚障害)の方がいる。詳しくは解らないが、どの色かを識別し辛いらしい。(識別は一応出来るのだが。)
その方の目では世界はどの様に映っているのだろうかと思った事が他我問題を考える一番初めのきっかけである。

もっと簡単に考えるなら写真のネガポジである。フィルムでは白黒が反転したモノになる。もし、写真の様に反転して見える方がおられたなら、画像2の下が上の様に見える筈だ。
しかし、自分しか解らない世界。この色が反転していると気付く事は無いし他人と違うという事を認識も出来ない。

私が見ているこの赤と貴方の見ている赤は本当に同じカラーなのだろうか?
結局は自分の目というファインダーを通して、脳というコンピューターで信号を映像化し、出力して見ているものを認識しているのだ。つまりは、実際に存在しているモノと自分が経験しているモノさえ同一とは言えないのではないか?

視覚のみならず味覚だろうが嗅覚だろうが感覚は全て同じである。ケーキを食べた時の「甘い」や花の馨り、果たして同じ「感」なのだろうか?

ゲーム中で語られたもう一つの例が「ALL IS VANITY」である。アラン・C・ギルバートによって描かれたトリックアートである。(画像3)
この絵に貴方は何を見るだろうか?
実は「髑髏」と「鏡台の前に座っている女性」、両方に見える絵なのだ。(有名な作品なので知っておられる方も多いと思う。)

初めて見る方にこの絵が何に見えるか質問すれば、どちらかの回答が帰ってくると思う。(または両方見えるという回答。)
これは1枚の絵という情報を、私達の頭がどの様に認識したか個体差が有るという証拠でもある。
そうでなければ、皆が同じ回答を持つ筈だ。

もしかしたらこの世界は私達個人個人によってよって全く違う千差万別の世界が広がっているのではないか?
もっと発展すると、私達は「世界のありのままの姿が見えていない」事になる。私達個人個人の脳を介して出力され、理解出来た「映像(等)」のみがその個人の認識しうる世界でしかない。
更に発展すると全ての感覚で知覚出来ないモノは存在しない。そこに有る机も意識出来ないモノになれば消滅してしまうのだ。

ゲームでは少々こじつけな点も見られるが、この他我問題はずっと私の中に有った疑問である。
貴方の見ている景色は、本当に私と同じなのだろうか?
貴方の見た赤とは私が見た赤と本当に同じなのだろうか?
皆も少々こういう事を考えながら世界を眺めて頂きたい。概念・感覚・思想・そして自分自身を見つめる事が出来るのではないだろうか?