30年前の昭和61年4月8日に岡田有希子はこの世を去ったわけだが、その1週間前の4月1日。私は社会人1年生として入社式に臨んだ。場所は麹町の都市センターだったと思う。以後、しばらくは四谷•麹町付近で研修を受け続けた。それは私の入社した会社の本社が四谷駅からすぐのところにあったためで、そのために、岡田有希子の死の2日後、お昼休みの時間におおぜいのファンが集まっていた現場に、新宿通りを歩いて行くことができたのであった。

社会人になって2~3年した頃、私の上司だった人間が、その頃、入社20年ぐらいだったはずだが、時間の経つ早さを、「本当にあっという間だぞ。大学時代なんて、ついこのあいだのことの気がする」と何度か私たちに言って聞かせたことがあった。気持ちはわかるが、少し大げさなんじゃないかと私は感じていた。何と言っても20年経っているんだ。「ついこのあいだ」ということはないだろう。

だがしかし。…

いま私は、「30年なんて本当に本当にあっという間だ。大学時代なんて、ついさっきのことの気がする」と感じている。そして、岡田有希子が、この世を去るまでの数日間をどのような気持ちで送ったのだろうかと感じている。

死の4日前に南青山のマンションで一人暮らしを始めたわけだから、その死は予定された行動ではなかったと考えるのが自然だろうか。最後のテレビ出演となった4月4日収録のバラエティ番組をみると、ファンからの「身体は痩せていて小さいのに、どうしてそんなにムネが大きいのですか」という質問に、「え?…あのお…」と意表をつかれた感じで一瞬、言葉をなくし、それから、「何を言おうとしたか、わからなくなっちゃったんですけど」と早口でつぶやきながら、「いえ。…そんなに大きくないです」と否定する。

その時のゆがんだような、4日後の死を知っているからではない気がする、どこか痛々しい笑顔は、デビュー時の、たとえば、「三枝の爆笑美女対談」や小島一慶の横にすわって溌剌とした雰囲気がだれにも好感をもたせるにちがいないと思わせた「ぴったしカンカン」出演時の顔つきとは別の人のようだ。

もうこのときには、死ではないにしても、少なくとも、今後もこれまでどおりアイドル歌手として歩んで行くことに難しさを感じながら、ただそのことをうまく言い出せないようなところがあったのだろうと思う。スプリングコンサートの後に寄った相澤社長宅で、「あたし、これからもやっていけるかな」と唐突に口にしたのは翌4月5日のことだったとされている。