近視・遠視・乱視・老視とレーシック

ただいまレーシック手術の術後経過観察中(1.5ヶ月経過)。私は老視(老眼)と遠視だったが、ひとまず手術で遠視を正視にして老視対策は後で考えることにしている。
手術直後は新聞やパソコンで眼鏡いらずになった。しかし今は小さい字や少し暗いところでの新聞が厳しい。手術にはオーバーシュート現象があるらしい。遠くに関しては不自由はない。ただしまだにじみがある・・強い光源や、コントラストの強い画面では近くに二重像ができるからで、これは何れよくなるはずだ。
近視が調整力ゼロで網膜より手前に焦点を結ぶのに対して、遠視は後方に結ぶ(水晶体・網膜)の屈折障害だ。乱視も屈折障害だが前後方向ではない歪みによるものだ。一方老視は水晶体が固くなったり水晶体を調節する筋肉が老化して調節範囲が小さくなる調節障害だ。レーシックは水晶体の形を変える手術だから、基本的には屈折障害の対策だ。レーシックで老視に対応するというのは、片目だけを近視状態にすることなのだ。老視対策としては他にリングを挿入する(つまり絞りを入れる)ものがある。どっちにするのか、それとも追加手術しないで我慢するのか未定だ。
以前は2.5~3度の老眼鏡を使っていたが、今の適正度数は1~1.5度だ。微妙・・・。

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「名所江戸百景」今昔:「外桜田弁慶堀糀町」
右手に江戸城西の丸の土手、左手には彦根藩井伊家の上屋敷がある。今は桜田濠と言うらしいが当時は弁慶堀と呼ばれたらしい。広重がこの絵を描いた4年後、井伊家を出て江戸城に向かった井伊直弼は水戸浪士に暗殺される・・いわゆる桜田門外の変だ。この桜田門の正式名称が外桜田門で内桜田門は桔梗門のことだ。
  
読み解き江戸時代:悲劇の会津藩、「会津魂を新政府に見せつける」
会津藩は新政府軍にとって「憎き敵」であった。会津藩は鳥羽伏見の戦いで旧幕府側の主力であったし、藩主松平容保が今日と守護職を務めていたとき、新撰組や見廻組を使って勤皇の志士を弾圧したし、長州征伐でも幕府側の主力だったからだ。
一方朝廷にも忠誠心を持っていた会津藩は朝廷を味方につけた新政府軍とは戦いたくなかったので、何度も嘆願書を送った・・しかし「朝敵」は撤回されず、戦いに突入せざるを得なくなっていった。
明治元年の5月から9月まで続いた抵抗も空しく、会津を始めとする東北諸藩は降伏してしまい、抵抗勢力は蝦夷地に向かった。
      
街道を行く:脇街道を知る⑭「大山道」、中山道67「守山宿」
大山道とは1本ではない・・・放射状に各地に伸びる参詣路すべて(10以上)を指す。入山は6月の初山、7月の盆山の期間のみに許可されていたので、大山詣は当然この期間に集中した。男神とも言える大山と女神とも言える江の島(弁天)の参詣はセットの観光旅行だった。グルメ旅行でもあった。
   
三都&町物語:江戸「通町筋」、陸奥「会津若松」
    
日本全国「藩」事情:「白河藩」
 
暮らし大全:「庶民が愛したフィクション『忠臣蔵』」「大人も子供も夢中、凧揚げ」「祭りを彩る、『神輿』」
元禄赤穂事件・・この「劇的」な事件に当時の演劇関係者は飛びついた。刃傷事件の翌年には歌舞伎の山村座が「東山栄華舞台」として、討ち入りの2ヵ月後には中村座が「曙曾我夜討」として・・一応架空の話として上演した・・しかしわずか数日で上演禁止になってしまった。しかし、この事件を題材にする人形浄瑠璃や歌舞伎が途絶えることはなかった。そして奇しくも?47年後、大坂竹本座が人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」を上演して大ヒット・・・江戸で歌舞伎化されて「忠臣蔵ブーム」を巻き起こした。南北朝時代に設定されていて大星由良之助(大石内蔵助)、塩冶判官(浅野内匠頭)、高師直(吉良上野介)など名前は変わっていても「ばればれ」だった。時の経過が幕府の寛大な措置をもたらした・・。もちろんその中身の多くは「フィクション」だが、庶民たちは「史実」だと思い込んだ。
  
偉人・奇人列伝:「中野竹子」