権兵衛が種蒔きゃ・・・
昨日の朝、スナックエンドウの種を蒔いていたポット(20個)の土が掘り返されたようになっていて、周りに土が散らかっていた。すぐ上には通信線が通っているので、そこから雨が落ちたせいかとも思ったが、すぐにそうではないと思った。電線との間に木の枝があるし、あまりにも「故意」の感がある。
どうやら鳥が種をほじくったらしい。この上の電線にはカラスがよく留っている。見ていないのでカラス以外の可能性もあるが、一応カラスを犯人ならぬ「犯鳥」としておこう。この辺りの鳥ではカラスが一番賢いから・・。無実かもしれないが、逮捕するわけでもなく、死刑にするわけでもないし、「鳥権侵害」にはならないだろう・・。
土の中を全部調べたが、豆も皮が一つあっただけで、全部なくなっていた。
仕方ないので蒔きなおして、ネットで覆った上、南側のテラスに置いた。ここは人目があるので、さすがにカラスはやってこない・・雀は来るけど・・。

食用菜花の苗に本葉が出てきたので、畑の空いているところに移植した。苗が小さすぎるのでうまく根付くかどうかは心配だ。残った菜花とブロッコリーを育成中のポットを南側のテラスに移した。ここは日当たりがよく、乾きやすいけど、成長も速いだろう・・。

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「名所江戸百景」今昔:「せき口上水端はせを庵椿やま」
「はせを」って何だろうと思ったら、「芭蕉」だった。右の高台の建物は「関口芭蕉庵」・・・今もあるが、高台には見えないけど・・。深川の芭蕉庵のほうが有名だが、芭蕉はその前に神田上水の工事に従事したらしく、竜隠庵に住んだらしい。この竜隠庵が後世になって芭蕉w慕う人々から関口芭蕉庵と呼ばれるようになった。
  
読み解き江戸時代:武家政権の終焉-大政奉還-、「慶喜VS.討幕派の静かな戦い」
慶喜は結構な策士だったらしい。倒幕の機運の高まりを感じた慶喜は、土佐藩からの大政奉還の建白をあっさり受け入れた。これによって薩摩・長州の振り上げた拳の行き場がなくなってしまった。朝廷に政権を返しても、「どうせ政権運営などできない朝廷は徳川家を重用せざるを得ない」・・天皇を象徴的な支配者として、大君という行政立法の長を置いて大名(上院)、藩士(下院)からなる議政院(立法府)を統率するという構想を目指したのだった。
大政奉還の1ヵ月後・・「龍馬暗殺」・・これには多くの謎が残る。誰が首謀者なのかがわからないのだ。「目付榎本対馬」「大目付永井尚志」「京都守護職松平容保」「薩摩藩西郷隆盛・大久保利通」「土佐藩後藤象二郎」・・見廻組が実行犯ということもほぼ定説だが、メンバーの自供には矛盾があり確かとは言えない。

      
街道を行く:脇街道を知る⑨「山陽道」中山道60「柏原宿」
  
三都&町物語:江戸「巣鴨」、大坂「長堀」
今は「お婆ちゃんの聖地」となった巣鴨・・ここは中山道の江戸出口(入口)だ。主要街道の出入口には六地蔵が建てられて信仰を集めたが、ここ巣鴨では「新性寺」にあって、縁日の6月24日には「百万遍大念珠供養」が執り行われる。全長9メートルの巨大な数珠を回しながら祈願する・・。
    
日本全国「藩」事情:「掛川藩」
 
暮らし大全:「幕末西洋医学」「江戸歌舞伎の『女』たち」「大被害をもたらした台風と洪水」
「おやま」の語源ははっきりしない・・元は「女方」・・これは男を演ずる「男方」に対応する呼称だ。「女形」も古くから使われているが、「女らしい」というニュアンスを表現するためだったのだろう。江戸時代には読みが同じで別の漢字を用いることは珍しくなかった。
江戸時代の関東平野は今のタイのようなものだ。タイほどではないが広大な平野(元は海だから標高が低い)が続くので川の上下流での高低差が小さい。だから大雨と大潮が重なると広範囲で浸水した。寛保2年(1742年)の大洪水では浅草で7尺、亀戸で12尺というから凄い・・・。
  
偉人・奇人列伝:「沢辺琢磨」