世界遺産の島、小笠原
先月末から今月初めにかけて小笠原に行ってきた。あんまりこういう場所に興味のない妻が急に「行こう」と言いだした。妻は「世界遺産」が大好きなのだ。世界遺産がテレビで紹介されるたびに「あれ、見たよね」とか言うのが大好きみたい。私の旅行はだいたい「女房孝行」なので決して拒否しない。
急に行こうと言い出した理由はもう一つあって、久里浜から寄港便のツアーを募集していたからだ。小笠原に行くには小笠原海運の定期船を利用するか、日本丸や飛鳥などの不定期観光船を利用するしかない。後で調べて分ったことは久里浜寄港は年に1便しかないのだ。
ダイビングや釣りなどマリンレジャーの好きな人は世界遺産にならなくてもとてもいい所だ。現にここに移住している若者は多い。私も、泳げもしないのに、ライフジャケットを付けてイルカウォッチングなどに挑戦・・・楽しかったけど、2回ほど海水を飲み込んでむせてしまった。魚を見るときには凪ぎのような場所だったので単独行動したが、イルカは潮流の激しい、波がやや高い場所に出現するので、スタッフのお姉さんの持つ浮き輪につかまりながら、迷子にならないよう奮闘・・。
しかし宿はホテルシップ(一等船室に泊まる)になってしまい残念だった。民宿等は混んでいるので仕方ないのだろうが、小笠原海運の金儲け主義に騙された感がある。まず食事がダメ・・我が家の夕食の方がずっといい。刺し身一皿とインスタント風の玉子豆腐にご飯、味噌汁・・・こんなの論外だ。1回だけ朝食が洋食になったとき食事が終るころ、「コーヒーがサービスになります」というので頼んだら、コーヒー沸かしの電源をその後に入れて「少々時間がかかりますが」と言いやがった。この日は早い時間に母島行きの船に乗る客だということが分っていての仕打ちだ。こんなの二度と利用しない・・もう一度行くことはまずないか。小笠原に行くのなら小笠原海運のツアーはやめましょう!

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「名所江戸百景」今昔:「目黒太鼓橋夕日の岡」
江戸では珍しい石造りの太鼓橋・・庭園以外ではここだけ? 今ではアーチ橋ではないが「太鼓橋」の名前は残っている。
  
読み解き江戸時代:龍馬、始動、「日本初の商社『亀山社中』設立」
龍馬はなぜ貿易に関心を持ったのか?・・大河ドラマを見ていれば分ったかもしれないが見ていない。そしてなぜ「亀山社中」というネーミングなのか? 薩長連合の実現を目論んで画策した龍馬・・それは日本のためというより自分の商売を成功させるための画策であった。
どうもジョン万次郎や彼を取り調べた河田小龍に影響を受けて「米国式のビジネス」に強い関心を持っていたのだ。そして「自分で蒸気船を持って貿易をする」というのが脱藩時の夢だったのである。
「亀山社中」の「亀山」は長崎の丘の上の「亀山焼窯」跡の一軒家を利用したことに由来しており、「社中」とは「カンパニー」だったのだ。当時の貿易は幕府や藩の下請けでしかなかったので、龍馬は欧米的な「貿易商社」を目指したのだ。
    
街道を行く:日光道中⑫「宇都宮宿~徳次郎宿」中山道54「河渡宿」・55「美江寺宿」
  
三都&町物語:江戸「鳥越」、越後「高田」
今の蔵前通と江戸通の交わる辺り、蔵前駅の近くに浅草天文台があった。天文学は主に暦を作るための施設である。神田佐久間町に作られた天文台は「宝暦暦」の完成に伴って廃止されたが、これが不完全なことが分って牛込に再建、後に鳥越に移転した。伊能忠敬もここで勉強した。
    
日本全国「藩」事情:「岩国藩」
錦帯橋で知られる岩国、岩国藩が認めた「藩」ではなかった。小さい藩は大きな藩の支藩であることが多いが、長州藩は支藩として幕府に届け出ていなかったので、正式には「岩国領」・・・岩国藩となったのは大政奉還後のことであり承認したのは新政府であった。そして3年後には廃藩置県で岩国県となった。
 
暮らし大全:「外国人が垣間見た幕末NIPPON」「一茶が詠んだ、のどかで厳しい農村風景」「怖いけど食べたい、ふぐ」
「ふぐ食」は秀吉の時代からずっとご法度だった。朝鮮出兵のため下関に集まった兵がふぐを食べて大勢なくなったからだ。しかし庶民は鍋などを楽しんだ(刺し身はあまり食べなかった)が、マグロ(鮪)と並んで「下魚」であった。しかし価格は人気とともに上下した。当初1尾1万円以上(500文)もしたのが、500円(12文)まで下がって庶民的な魚になったかと思えば、文化年間の頃には5000円以上(200~300文)に跳ね上がった。
  
偉人・奇人列伝:「井上井月」