久しぶりに近所の練習場(木戸愛プロが小学生の頃通っていた)に出かけた。そしたらプリペイドカードが無効になっていた。そこで1年以上行っていなかったことに気づいた。昨年の10月が書き換え期限になっていたようだ。多分1000円もないとは思うけど・・。
最近アイアンの方向性が定まらないので、6,7,8,9番を持って自転車で行ってきた。平日の朝だからほとんどが年寄りだ。一部若い人がいるけど、この人勤務時間が変則なのかなぁ・・。
50球ほど打ったけど確たる原因は分からなかった。ただすごくストロンググリップにしていることがあるみたいで、左に大きく引っ掛ける一因のようだ。左に引っかかるのが気になって、右に押し出しているのかもしれない。メンタルなことは現場でないと分からない。明日のラウンドではグリップに気をつけてやってみよう。

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「名所江戸百景」今昔:「日暮里諏訪の台」
今でも日暮里駅の南西に諏訪神社と高台があるらしい。そして中央に人々が登って来る坂は、今地蔵坂と呼ばれる坂らしい。眼下に広がるのは田圃で、向こうに見えるのは筑波山や日光の山々。今では田圃ではなく山手線や新幹線が走り、山ではなくてビルが続いている。日暮里は元々新堀・・それが「日暮らしの里」と呼ばれ、日暮里と書かれるようになったらしい。
  
読み解き江戸時代:昨日の友は今日の敵-薩英戦争-、「激突!薩摩藩VS.大英帝国」
薩摩藩は開国を旗印にしていて攘夷ではなかった。・・にも関わらず「生麦事件」を起こして、イギリスと戦争をするに至る。生麦事件は大名行列の中に馬に乗ったイギリス人たちが近づき、「馬から下りて脇に寄れ」と警告したが無視して行列の中に入ってしまい、藩士が「無礼討ち」したという事件だ。つまり攘夷だから外国人を殺したのではなく、日本人でも誰でも同じだったのだ。イギリスは謝罪と賠償を求めてきたが、断固拒否して開戦・・・2日間の戦争はどっちが勝ったのか分からない状況だったが、圧倒的な艦砲射撃能力がありながらも上陸部隊を持たないイギリスは一旦引き揚げた。そして3ヵ月後には講和交渉に入った。やむなく賠償金を払うことになった薩摩藩は驚きの行動に出る。薩摩藩重野安繹は「交換条件として軍艦の購入を斡旋してもらいたい」と提案した。驚いたイギリス代理公使ニールが理由を尋ねると「イギリスとの再戦に備える」と言い放った。ニールは半ば呆れて、半ば感心し、この提案を受け入れた。また大久保利通は「賠償金は幕府から借用したい」と要求、幕府が断ると「借りられなければイギリス公使を斬る」と脅した。イギリスとの揉め事を恐れた幕府は条件をのんで和睦は成立した。しかし誰がイギリス人を殺したのかは迷宮入りとなった。薩摩隼人は凄いねぇ。
    
街道を行く:日光道中⑩「新田宿~雀宮宿」、中山道48「細久手宿」・49「御嶽宿」
  
三都&町物語:江戸「揚場河岸」、薩摩「鹿児島」
鎌倉時代の荘園「島津荘」の地頭惟宗忠久が島津姓を名乗って以来、守護大名、戦国大名、鹿児島藩主として薩摩を治めた。
   
日本全国「藩」事情:「唐津藩」

 
暮らし大全:「儀礼と遊びの折紙」「姿も声も愛おしい小鳥たち」「甘くて楽しい、飴」
折紙には「礼法折紙」と「遊戯折紙」があり、前者は武家の儀礼の席での飾りや贈答品に使われたもので、熨斗はその名残りであると言われる。「遊戯折紙」のルーツは定かでなく、「好色一代男」に出てくる「比翼のおり居」というのが文学初登場らしい。元禄の頃には折鶴模様が小袖の柄に描かれたり、句に読まれたりしている。「折り紙付き」という言葉は、室町時代の公文書等の折り方に由来する。鑑定書をこの折り方にしたことから「品質が保証された逸品」という意味になり、人にも使われるようになった。
  
偉人・奇人列伝:「横井小楠」