久しぶりに仕事が始まったので、書き込みの間が空いてしまった。
台風が来る、来ると言いながらまだ来ない。そして予報の進路は西へ西へとずれてしまった。しかし午後からだんだん風が強くなってきたので、プランターの植物を退避させている。畑の野菜はちょっとネットをかけたり、ひもで固定したりしているが、直撃なら無意味かもしれない。ゴーヤやミニトマトは収穫最盛期を過ぎたので、「どうにでもなれ」と放置だ。
「オーシャンブルー」というノアサガオの突然変異種の苗を買って、朝顔と一緒に植えていた。これがようやく蕾を付け始めていたので、防虫ネットで覆って風対策した。前回の台風接近でほとんどの葉がちりちりになってしまった反省だ。ただし西の窓際に植えてあって、前回は北から西の風にやられたのだが、今回は南から東の風なので大丈夫だろう。しかし台風が日本海に抜けると西風になるかもしれないので油断は禁物だ。同様に今年植えたキウイの苗(ようやく3メートルくらいまで伸びた)もネットで巻いておいた。若い苗は葉がなくなると先っぽが枯れてしまうから・・。

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「名所江戸百景」今昔:「廓中東雲」
「廓」とはもちろん「吉原」のこと・・東の空が白んでくる・・それが東雲だ。この大門は夜12時に閉まって朝6時に開いた・・ということは歩いている人は遊客が帰るところか。この季節3月には夜桜を楽しむために1000本以上の桜の木が植えられたという。
  
読み解き江戸時代:朝廷の逆襲、「229年ぶりの将軍上洛」
将軍家茂の上洛は「攘夷実行」を求めて孝明天皇が要請したものだ。その前の家光の上洛は幕府の威光を示すものだったが、今回は「朝廷の反撃」であった。文久2年の和宮降嫁の1年後の文久3年3月、海路で上洛しようとするも、生麦事件の勃発でイギリスの軍艦を恐れ、陸路の上洛になった(還御は海路)。2度目の上洛(同年12月から翌年にかけて)のとき家茂らの乗った軍艦(蒸気船)は最初に浦賀に寄港している。そのときの接待や視察の様子が八幡村名主六兵衛の日記に詳しく書かれている。実はこのときが「将軍が庶民の前に出て自由に顔を見ることを許した」最初の出来事だったのだ。六兵衛がえらく恐縮し、感激した様子が書かれている。
    
街道を行く:日光道中⑧「野木宿~間々田宿」、中山道44「落合宿」・45「中津川宿」
  
三都&町物語:江戸「九段坂」、相模「小田原」
坂なのに九段とはこれいかに・・・坂に沿って武家屋敷の長屋が並んでいて、それが9段の階段状になっていたからなんだって・・。
   
日本全国「藩」事情:「大洲藩」
大洲(おおず)は儒学者中江藤樹が10歳から27歳まで過ごした伊予の地・・27歳で近江に残していた母の孝養のため脱藩し、『近江聖人』と呼ばれるようになった。大洲藩は蒸気船「いろは丸」を貿易用に所有していたが、龍馬の海援隊に貸し出した。ところが紀州藩の船と衝突して沈没・・龍馬は国際法を縦に莫大な賠償金を得たらしい。しかし銃400丁や金塊を積んでいたという主張は怪しく、「賠償金詐欺」説もある。
 
暮らし大全:「美人画の『歌麿』」「涼を楽しむ『滝浴み』」「江戸っ子の自慢は白いご飯」
王子付近を流れる滝野川には「名主の滝」「不動の滝」「権現の滝」「稲荷の滝」「大工の滝」「見晴の滝」「弁天の滝」の「王子七滝」があって、夏には江戸の庶民で賑わった。
都市部では元禄以降、白く精米した米のご飯が食べられるようになったが、そのおかげで「江戸わずらい」という病気が流行した。上方では「大坂腫れ」と呼ばれたこの病気はビタミンB1の欠乏からくる「脚気」のことである。家茂も長州征伐で大坂に来ていたとき、脚気を発病して心不全で亡くなったと言われる。
  
偉人・奇人列伝:「続豊治」