久しぶりに小雨の降る涼しい天気になった。植物の水やりをしなくてすむので助かる。
地植えのハバネロにも実がたくさんついてきた。プランターのハバネロも花が咲いているのである程度収穫できそうだ。別に普通の唐辛子も作っていて、3分の1くらいは赤くなってきた。唐辛子は天を向いて実がなってるが、似ているしし唐は下に向かってぶら下がる。ずいぶん収穫を楽しんだしし唐もそろそろ収穫末期だ。さらに親戚の?ピーマンはあまり収穫が多くない・・株は元気なのでこれから?
ゴーヤはどんどんできて食べきれない。毎朝生ゴーヤジュースを飲み、漬物を作り、チャンプルー・肉詰めなどの炒め物をしているが、冷蔵庫の中に収めきれない。
そのほかではモロヘイヤの収穫・・切っても切っても伸びてくる。オクラは成長が遅かったせいか、時々収穫中。ミニトマトはほぼ完了。
ほうれん草の夏まきは失敗気味だが、ブロッコリーは何とか発芽してくれそうだ。

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「名所江戸百景」今昔:「堀江ねこざね」
今は浦安市を流れる境川・・右岸に見えるのが猫実村で、左岸に見えるのが堀江村だ。西から流れてくるので上流側に富士山が見える。境川は非常に短い(2キロ弱)川だったが、昭和40年以降の埋立で川の長さは3倍にもなった。という訳で埋め立てから年月の経っていない砂地の舞浜は東北大地震で液状化現象に襲われることになった・・この絵よりずっと手前のほうのことだ。
  
読み解き江戸時代:『公武合体』という政略結婚、「将軍家に嫁いだ皇女・和宮」
安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧を行った井伊直弼は桜田門外で尊王攘夷派である水戸浪士らに暗殺されたが、実はその前から天皇家から将軍家茂(当時13歳)の正室を迎え入れる画策をしていた。攘夷を主張して扱い難い朝廷をコントロールするために皇女をいわば人質に取ろうというものだ。第一候補は孝明天皇の皇女富貴宮・・・ただしまだ生まれたばかりという難点があった。第二候補は孝明天皇の姉敏宮・・ただし既に30歳になっているのが難点だった。光明天皇の妹和宮は家茂と同い年だったが、既に婚約していた。翌年には富貴宮の早世があって和宮に決定・・・ところがその翌年に桜田門外の変が起きる。井伊の後を継いで幕政を担当した老中の安藤信正と久世広周は幕府の権威強化と尊王攘夷派への対抗の意図で朝廷に和宮降嫁を要請した。孝明天皇は反対したが、幕府の圧力・工作と攘夷実行の約束で軟化し、ついに二人が17歳のとき政略結婚は実現の運びとなった。
    
街道を行く:日光道中⑦「中田宿~野木宿」、中山道43「馬籠宿」
  
三都&町物語:江戸「萬年橋」、大坂「生國魂神社」
   
日本全国「藩」事情:「人吉藩」
人吉藩は全国的にも珍しい「真宗禁制」の藩だった。真宗の反逆的思想を警戒したためだ。真宗は浄土真宗あるいは一向宗と呼ばれ、確かに一時は一揆を起こしたこともあったが・・。処罰を恐れて集団入水自殺した「十四人淵」や西本願寺に向かうため藩を抜け出そうとして捕らえられ処刑された男「伝助の墓」などが今も残っている。それにしても過激だね・・・何か怨みでもあったのだろうか。
 
暮らし大全:「時代を超えて愛される歌舞伎演目」「ドタバタ旅行記『膝栗毛』」「素朴なお洒落、絣」
絣(染織り)の技法はインドで生まれ、インドネシアの島、中国を経て琉球、薩摩を経て江戸時代中期には日本各地で織られるようになった。
「東海道中膝栗毛」は十返舎一九の代表的なヒット作・・何回も増刷したため版木が磨り減り作り直すほどだった。そこで東海道の旅が終ると「続膝栗毛」が書かれ、四国の金毘羅参り、安芸の宮島参詣、木曾街道、中山道と方々を旅したので江戸に戻ったのは21年ぶりだったそうな。類似本も多く書かれ、明治時代には仮名垣魯文が「西洋道中膝栗毛」を著している。弥次喜多の孫が中国・インド・エジプトなどを経てイギリスまで旅をする・・というものだ。
  
偉人・奇人列伝:「新門辰五郎」
浅草「を組」頭、辰五郎はその娘が徳川慶喜の妾になったことが縁で辰五郎も寵愛され、上洛の際の警護なども務めている。鳥羽伏見の戦いで破れ大阪城に退いた慶喜は大阪湾に停泊中の開陽丸で江戸に逃げたが、大阪城に家康の代から継承されていた「金扇馬標」(戦陣における大将のしるし)を忘れてしまう。辰五郎はこれを持って敵軍の間をくぐりぬけ大阪湾に急いだが既に出航済み・・辰五郎は子分20人とともに陸路これを江戸に運んだ。