我が家の12株のゴーヤは今、収穫最盛期。8株ある東の台所出窓のカーテンになっている地植えのものは、例年ほど大きくならないような気がするが、そこそこの収穫だ。4株植えた南側居間のカーテンになっているプランター栽培は、例年になく好調だ。過去にもプランター栽培を試みたが、あまり実がならなかったし、なっても小さかった。それが今年は葉こそ地植えほど茂らないものの、30センチ級の実が次々にできていて絶好調だ。これまでとの違いは「水の量」だ。今年は私が育てた苗を5人の知人に差し上げた。多くはプランター栽培で、その成績は明確に水やりの量に相関を持っている。私は初期に1株当たり水1リットルやっていたが、最近は2リットルにしている。もっとやってもいいかもしれない。表面の土が湿る程度にしかやらない人は全くダメだ。ゴーヤは日照を遮るだけではなく、葉からの蒸散作用で涼しくしてくれる。つまり猛暑では大量に水を消費している。これに水道水を使用したらちっともエコでないので、私は風呂の残り水(洗濯に使用してさらに残った水をタンクに溜めている)を使用している。

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「名所江戸百景」今昔:「王子装束ゑの木大晦日の狐火」
関東各地の狐が毎年大晦日にこの榎木の元に集まって装束を整え、王子稲荷に参詣したという言い伝えに基く絵だ。狐火とは狐の吐く息が光って見えるものだが・・科学的にはそんなはずがない。実際には動物の死体などから発する燐が発火したもの(つまり人だまと同じ)と推定されているが、証明されてはいない。狐火の数で翌年の作物の豊凶を占ったらしい・・しかしそんなに都合よく大晦日に自然現象的に狐火が現れるはずもない。見物客も多かったことから、地元の人たちが松明の灯をともして狐火に見せかけたらしい。昔の田舎は夜になると漆黒の暗闇になったからできたことだろうね。今ならすぐばれる。
  
読み解き江戸時代:桜田門外の変-動乱の時代・序章-、「大老・井伊直弼、凶刃に倒れる」
桜田門外で井伊直弼を急襲したのは水戸藩浪士たち・・・と思っていたけど、二人の元薩摩藩士もいたんだね。それは有村兄弟・・・井伊を駕籠から引きずり出して首を取ったのは弟の次左衛門だ(兄勇助は実行部隊には加わらなかった)。参加者のほとんどは斬罪(死罪)・自刃(自刃)・死亡(討死など)だが2名は逃げ延びて維新後まで生きている。
しかしその後の水戸藩と薩摩藩の運命は大きく変わっていく。桜田門外の変主力の水戸藩は尊皇攘夷の過激派となったが、自重した薩摩藩は過激な行動には走らず後に尊王倒幕に走り、幕末の政局に大きな影響を及ぼすとともに維新政府でも大きな力となる人材を温存したのだ。私が勉強している幕末の八幡久里浜村名主の日記に出てくる触書でも水戸浪士はまったくの「ならず者」扱いであった。
    
街道を行く:日光道中⑥「幸手宿~中田宿」、中山道42「妻籠宿」
  
三都&町物語:江戸「市ヶ谷」、豊後「如意ヶ獄」
旧暦7月16日の「五山の送り火」・・その一つ大文字山は如意ヶ獄の隣に位置する。送り火と言えば最近「被災地の松を使うかどうか」でもめたことで話題になった。被災地(陸前高田)の松を使おうというアイディアが一部市民の「放射能が心配」の声で頓挫、多数の市民の「非難」で一転再び採用することにしたが、松の表面から放射性物質が検出されてまた中止。このドタバタは何だ! 最初から放射能の検査をすればいいのに、樹皮が問題なら樹皮を除いて京都に持って行けばいいのに・・。そうこうしていたら成田山新勝寺が9月の「おたき上げ」で、同じ木を護摩木と一緒に焚いて、震災犠牲者の供養を行うという報道・・・樹皮を剥がして成田に送るらしい。送り火だって「供養」の意味があるのだろうから、このような結論の違いは信じられない。
   
日本全国「藩」事情:「鳥羽藩」
 
暮らし大全:「日本へやってきた西洋音楽」「江戸のスタミナ食、どじょう」「男たちが集う社交場、髪結床」
西洋音楽は長崎の出島から持ち込まれたオランダ人によるものが最初だろう。そしてアメリカ人によるものと言えばやはりペリーだろう。ペリーが当地久里浜の海岸に第一歩を印したとき、軍楽隊2隊と少年鼓笛隊1隊を上陸させ、国家の代わりである「ヘイル・コロンビア」を演奏した。また戻るときには「ヤンキー・ドゥードゥル」(アルプス一万尺の歌詞で知られる)を演奏した。ど田舎と言ってよい久里浜の農民・漁民は驚いただろうね。このときの模様を見物する地元民のことが地方文書にも書かれている。怖いというより、興味深々だったらしい。
  
偉人・奇人列伝:「斎藤月岑」