妻が数独(ナンプレ)というパズルを始めた。ボケ防止なんだそうだ。私は昔からパズルを趣味にしてい数独も好きだ。10年近く前に数独を自動的に解くプログラム(VBA)を作った。未完成のまま放置していたら、ソフトが行方不明になっていた。昔の使っていないフロッピーディスク(FD)やCDを片付けようと思って調べていたら、あるFDの中に見つかった。
せっかくだから完成させておこうと思って開発再開・・・。以前は超難解の問題(試行錯誤をしなければ解けない)には対応していなかったが、これにも一応対応できるようにした。完璧に対応しようとすると答えが出るまで時間がかかりすぎるので、やや簡易方式だ。それでも超難問20問くらいでテストしてみたが解けない問題はなかった(所要時間30秒から3分)。
誰か欲しい人がいたらあげるのだけど・・・。「パズルは悩んで解くのが醍醐味で答えがすぐ出たら面白くもなんともない」・・・確かにその通り・・・検算装置としてでも使ってちょうだい!
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「名所江戸百景」今昔:「王子音無川堰埭世俗大瀧ト唱」
音無川(別名王子川)とは今の石神井川である。王子にはこれとは別に「不動の瀧」という立派な自然の滝があったが、これは人口の堰である・・・だから「世俗に大瀧と唱ふ」。桜の季節のように見えるが、多数の人が川や滝の下に入っているようだ。水遊びなのか信仰なのか・・。石神井川が当時は「渓谷」だったというのは信じられないね。
  
読み解き江戸時代:藩政改革-それぞれの家計簿-、「藩を立て直す時は今!」
幕府だけでなく諸藩もどんどん財政危機に陥っていった。特に藩(大名)が困ったのは、参勤交代における江戸での諸費用と幕府から命ぜられる公共工事の費用だった。改革に成功した藩としては熊本、松代、庄内、松江、会津などがあるが、中でも米沢藩の改革は有名である。多くの場合改革は「倹約=支出の抑制」と「産業振興=収入の増大)。また財政悪化の段階で商人から多額の借金をしていたものを減額交渉=債務整理することも行われた。
  
街道を行く:甲州道中③「高井戸宿~府中宿」、中山道③「浦和宿」
なぜ「府中」という名前なんだろう・・古く大化の改新の際「国府」がここに設けられたから・・・らしい。深大寺蕎麦は寺の池に注ぎ込む清水を使って打った蕎麦が当時の文人墨客たちに愛された伝統の味である。
浦和付近には当時沼が多く、そこで獲れた鰻が名物になった。今でも鰻料理屋が多いのでどうしてなんだろうと思っていた。今の老舗山崎屋の鰻は静岡産だって・・。蕨宿と浦和宿の間にちょっと急な坂=焼米坂がある。米を籾のまま焼いて、それを搗いて殻を取ったもの=焼米を売る茶店がいくつもあったらしい。そのまま食べたり、湯に浸して食べたりしたのだそうだ。
  
'''三都&町物語:江戸「谷中天王寺」、駿河「駿府」
谷中の生姜は葉の部分も食べる「葉生姜」・・辛味が少なくて歯ざわりや風味が良いので江戸っ子に大人気だった。天王寺は富くじ興行で賑わった・・・目黒不動、湯島天神と並ぶ「三富」の一つだった。日蓮宗から天台宗に改宗して檀家が減って、寺を維持するために富くじ興行を許可申請したのだそうだ。
今では「静岡市」だが、昔は駿河の国の国府だったので「駿府」・・・。戦国時代までは今川氏の本拠地で、家康は今川義元の人質として10年余りここで過ごした。そして今川氏が滅亡した後は家康の領地となり、秀吉に関東に国替えされたが、江戸幕府を開いた後2年で隠居して駿府に戻って、実際には「大御所」として実権を握り続けた。
  
日本全国「藩」事情:「松本藩」
全国にある天守閣のほとんどたとえば大阪城などは後に再建されたもので、国宝になっている城は4つしかない。松本城のほかは姫路城・彦根城・犬山城である。松本城は小笠原氏が築いた深志城が始まりで、武田氏支配の後、小笠原氏が再入封して松本城と改称、その後入封した石川氏が城郭の普請を行ったとされる。天守閣は安土桃山時代のものである。小笠原貞慶が再入封したとき「待つ(松)こと久しくして本懐を遂げた」と言ったので「松本」になったと伝わる。
 
暮らし大全:「印刷技術と読書ブーム」「華やかな歌舞伎舞踊の世界」「女のお洒落の第一条件、櫛」
江戸時代初期には活字(木製)印刷もあったが、後に挿絵も文字もまるごと板に彫り付ける「木版印刷」に移行して行った。当時最高の作者は「好色一代男」で有名な大坂町人井原西鶴・・・西鶴は文章も挿絵も自ら担当したが、後に江戸で出版された海賊版の挿絵は菱川師宣が描いたと言う。浮世絵の創始者師宣もこのときは西鶴の絵とほとんど同じものを描いていて創造性ゼロであった。
「舞踊」とは明治時代になって作られた言葉で、「水平的な旋回運動=舞」と「垂直的な跳躍運動=踊」を組み合わせたものなんだって・・。歌舞伎は台詞劇と舞踊が並存する舞台だ。「振り」というのは心理描写を含めた舞踊の動きだが、当初は役者が「振り」を考えていた・・・元禄期以降は専門の振付師が劇場に専属するようになった。
櫛は髪を整えるための道具だが、重要なあくセササリーでもあった。櫛の材料として代表的なのは黄楊(つげ)だが、ぜいたくなものとしては鼈甲(べっこう)が用いられた。そのほかに金属やガラス、象牙も用いられた。江戸の女性のお洒落は「いち櫛、に帯、さん小袖」と言われ櫛は最重要アイテムだった。
 
偉人・奇人列伝:「良寛」
子供たちの人気者だった天台宗の僧侶で歌人、書家の良寛。70歳のときに訪れた貞心尼に恋心をいだき、二人で交わした恋歌などが「蓮の露」だ。良寛の死後貞心尼が移り住んだ釈迦堂が火事で焼けて多くの文献が消失したが、「蓮の露」だけは彼女が肌身離さず持っていたため難を逃れ、後世の良寛研究の貴重な文献になった。