そろそろ確定申告・・。ほぼ会計処理は終っていたので、そろそろ印刷して提出するかと思っていたら、なぜかプリンター(キャノンPIXUS MP800)の電源が入らない。前日なぜかブレーカが落ちたので電源が切れたのは分かるけど、電源ボタンを押してもうんともすんとも言わない。「こりゃあ困った」と思って、取説を読んでも分からないので、キャノンに電話してみた。「コンセントを差し替えてください」「スイッチを長押ししてみてください」「それでもダメなら訪問回収修理になります」「保証が切れているので修理費9千○百円、輸送費千○百円がかかります」「この商品のサービス期限は今年の7月ですので・・」と「新しい機種に買い換えろ」と言わんばかり・・。
ネットで調べてみると、どうもスイッチ(自己保持リレータイプ)の不良はよくあるらしい。「じゃあ自分で修理してやろう」「スイッチを買わねばならないのでどんなタイプか調べよう」と思って床に転がして、念のためスイッチをいじっていたら電源ランプが点灯したではないか! 何回か繰り返してみるとうまくいったりいかなかったり・・・典型的な接触不良だ。電源を入れてこのままそっとしておこう。
イメージ 1
「名所江戸百景」今昔:「愛宕下藪小路」
この頃江戸ではよく雪が降ったんだねぇ。広重の絵にも雪景色は多い。一説によると江戸時代は「寒冷化」だったらしい。徐々に温暖化して、都市化・二酸化炭素などがあいまって東京の雪景色は滅多に見られなくなった。いろいろ原因があってどいつが「主犯」なのかは分からないけどね。ここ愛宕山(西新橋付近)は雪見の名所でもあった。西新橋は数年通勤したところだけど、もちろん絵の中の桜川もないし、(水口藩加藤家の)竹薮も藪小路も、面影すらもない。
  
読み解き江戸時代:日本初の物産展、「平賀源内がプロデュースした」
宝暦7年湯島天神近くで開催された「第一回東都薬品会」・・・平賀源内が師の田村藍水に提案して実現した。料亭が会場であるにもかかわらず飲食は一切なく珍しい動植物、鉱物180種の見本・標本が展示され、大成功を収めた。当時はなかなか「本物」を見る機会のなかった医者や薬種問屋などがこぞって見に来たのである。その後、6年間に5回開催され、京や大坂、尾張などでも物産展が開かれることになった。このことは本草学の進歩、殖産興業の機運の高まりに大いに貢献した。
 
街道を行く:四国八十八ヵ所お遍路の旅、東海道53「大津宿」
四国お遍路は観光色の強い「お伊勢参り」などと比べて、修業的な色彩の強いものだった。大坂から船で阿波の撫養に渡り、霊山寺を皮切りに、土佐・伊予・讃岐の順に大窪寺までの約330里を40~50日かけて歩く長旅であった。
東海道53次の最後の宿場、大津は東海道最大の宿場でもある。大津周辺の「近江八景」とは「石山の秋月」「瀬田の夕照」「粟津の晴嵐」「矢橋の帰帆」「三井の晩鐘」「唐崎の夜雨」「堅田の落雁」「比良の暮雪」・・・・あれ??どこかで聞いたことがあるなぁ。
そうだ「金沢八景」・・・「瀬戸の秋月」「野島の夕照」「洲崎の晴嵐」「乙艫の帰帆」「称名の晩鐘」「小泉の夜雨」「平潟の落雁」「内川の暮雪」と同じだ!
どっちかが真似たのかと思ったらどっちも中国のマネだった(今は中国人の方がマネ好き?)。「瀟湘八景」はすべて今の湖南省に属し「洞庭秋月」「漁村夕照」「山市晴嵐」「遠浦帰帆」「烟寺晩鐘」「瀟湘夜雨」「平沙落雁」「江天暮雪」・・洞庭湖に流れ込む湘江流域の8つの名勝である。
  
三都&町物語:江戸「王子稲荷」、下総「成田山」
初午の日には大変賑わった王子稲荷・・・「装束狐行列」の伝説が有名・・。大晦日の夜に関東一円の稲荷社から狐が高級女官の装束を着て人間に化けて集まってくるというのだ。もちろん江戸時代に狐火を見た人はいないが、見に集まる人は多かったので、近隣の人たちが松明を灯して演出した。
今年の元旦市川海老蔵は成田さんにお参りできなかったが、市川団十郎家代々が信仰の対象とした寺である。初代団十郎は子宝に恵まれなかったが、成田不動尊に祈願したところ早速妻が懐妊し後の二代目団十郎が生まれたというのがきっかけであった。真央ちゃんも「亭主の夜遊び封じ」の祈願をするといいかも・・。
  
日本全国「藩」事情:「沼田藩」
関ヶ原の戦いで真田昌幸と信繁(幸村)は西軍、嫡子信幸(後に信之)は東軍に分かれて戦い、信之は沼田領を拝領した。五代目信利のとき悪政を理由に改易となり、本多家、黒田家、土岐家と藩主が代わった。
 
暮らし大全:「あったか鍋料理で食い倒れ」「江戸の珍商売」「女性を魅せる、簪」
鍋の語源は「肴瓮(なへ)」・・肴は魚のことで、瓮は土製の甕である。牛鍋屋に出入する客を描いた仮名垣魯文の滑稽小説「牛店雑談 安愚楽鍋」という書には「牛鍋食わぬは開けぬ奴」と書いてある・・当時(明治の初め)関東では「牛鍋」、関西では「すき焼き」と呼ばれていた。「安愚楽牧場」の社名由来になっている。
江戸の商売の基本は徹底した「リサイクル」だ。死者が身に着けていたもの衣服や葬儀に使った品を再利用する商売「湯灌場買い」というものまであった。四谷の屋根職人が副業で女装し女の声音で「お万が飴」を売って大人気を博した・・今の女装家のルーツだ。
江戸初期には簪の材料は真鍮など細工しやすい金属だったが、後期には銀や鉄などの金属が愛用された・・江戸の女の渋好みによるとともに、護身用でもあったからだ。川柳に「簪も 逆手に持てば おそろしい」・・・。
 
偉人・奇人列伝:「増山雪斎」
大名であり伊勢国の長島藩主でありながら、花鳥図の達人・・。昆虫をこよなく愛し、数々の虫の写生をして「虫豸帖」を残した。その死後友人たちが建てた「虫塚」は上野寛永寺にある(菩提寺の下谷中勧善院境内にあったが寛永寺に合併された)。