今日は昨日と違ってずいぶん暖かい。3箇所に植えてあるスナップエンドウの支柱を作った。去年は暖かくて大きくなりすぎ、冬から春の強風にやられたので、今年は遅く種蒔きしたので、苗はまだ小さい。今年は寒いので、予想を超えて小さいような気もする。子育てと同じ?で悩みは多い。
水曜日はゴルフだけど、今日と同じように風が弱くて陽射しがあるといいね。二人で廻ることになりそうなので、グリーン上でパターの復習をすることにしている。歳を取るとパターやアプローチがうまくなるというけど、私の場合は下手になってくる。一に練習、二に練習・・・と言いつつも練習場には滅多に行かない。今日も庭でドライバーの素振りをしてうまくなった積り・・。
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「名所江戸百景」今昔:「山下町日比谷外さくら田」
山下町から外桜田を望むお堀端・・・門松や凧上げ、羽根つきの風景から正月であることを示している。右に羽子板の表、左に裏、上空に羽根を描いて人は描かない面白い構図だ。羽子板の表は今と同じく押絵で役者や美人の顔を描いた。裏に墨で描かれているのは竹・・これはお決まりだったそうな。
  
読み解き江戸時代:宝暦治水工事と薩摩藩、「幕府による薩摩藩いじめ!?」
木曾三川(木曾川、長良川、揖斐川)は昔、いたるところでつながっていて、大雨が降ると海抜の高い木曾川から低い揖斐川の方に流れ込みしばしば洪水になった。幕府は常々危険視していた薩摩藩の体力をそぐべく、木曾三川治水工事を命じた。薩摩藩の家老で工事の総奉行だった平田靭負は工事が終った後切腹して責任を取った・・・薩摩藩士80人以上の死亡と莫大な工事費負担・・多くの藩士や平田の死は幕府への抗議であったが、幕府の仕打ちを恐れて病死として処理された。
 
街道を行く:馬と旅、東海道52「草津宿」
宿場の馬会所で用意された馬と客待ちの馬子・・馬はさしずめ宿場間タクシーだ。40貫までの荷物専用「本馬」、人と荷物合計20貫までの「乗懸」、人プラス5貫までの手荷物の「軽尻」という体系で料金が決まっていたが、結構高いものだった。これを解決した「速い・安い」が「中馬」・・農民が駄賃稼ぎに始めたもので、乗り継ぎもなく脇道も使うので荷の積み下ろしがなく安全で速かった。
草津は中山道と東海道が合流し京までは一つの道となる交通の要所だ。草津を出て大津に向かう道は琵琶湖の南側を迂回して瀬田川の橋(瀬田大橋)を渡る。矢橋から船で琵琶湖を横切れば結構速かったが、西風が強いと転覆することもあり、連歌師宗長が「もののふの 矢橋の船は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」と詠んで、今も使われる「急がば回れ」の由来となった。
  
三都&町物語:江戸「平川門」、松江「出雲大社」
家康が江戸城に入った当時は、神田川は平川と呼ばれ、城の北側は平川村だった。平川門は大奥の女中の出入口だったが、罪人や死者を城外に出すときにも使われた。春日局が門限に遅れて門前で一夜を明かしたときも、絵島が生島との情事がばれて?信州に流されたときも・・・。
旧暦の10月は神無月・・・つまり出雲大社では神在月と呼ばれる。出雲大社では大国主命が神々とともに男女の名前の書かれた木の札を結んで「縁結び」をする・・去年お参りしたのに、我が家ではなかなか・・。
  
日本全国「藩」事情:「川越藩」
「小江戸」と称された川越・・と書いてあるが、なぜ小江戸なのか説明がない・・最近のことでは? こないだ川越市の「砂村」を調査するために出かけて、ついでに観光もしてきた。荒川支流の新河岸川は江戸と結ばれて物資が輸送されたが、客船(川越夜船)も往復していた。新河岸川の近くに「砂村」があったので訪ねてみた川は、結構広いものだった。ここの舟運は知恵伊豆と呼ばれた松平信綱(川越藩主であり老中)によって整備された。
 
暮らし大全:「海からの贈り物、鯨漁」「『牢屋敷』、ここは地獄の1丁目」「コレクター続出! 粋な流行『千社札』」
今や国際的には悪者扱いされる捕鯨・・当時は紀州・安房・土佐・西海地方が主要漁場だった。当初「突き捕り式」だったのが「網捕り式」に改良され捕獲確率が向上した。鯨を網に追い込み絡ませて動きを止め、綱つきの銛を打ち込んで舟を引かせて弱らせ、剣で止めを刺した。すべての部位が利用できる鯨は1頭千両にもなったことがあるという。大きな鯨を捕まえるのは1億円ビジネスだったのだ。
牢屋敷は各地にあったが小伝馬町の牢屋敷は最大規模で300~400人の囚人が収容されていた。囚人自治システムの中でトップが「牢名主」、その代理の「名主添役」、監視役の「角役」、指導役の「弐番役」・・このシステムで牢内治安は維持されたが、賄賂がはびこり、賄賂を持ち込めなかった者はひどい虐待を受けた。
千社の千とは「たくさんの」という意味で、数多くの稲荷社を参詣して札を貼ることが流行した。元は「題名納札」が正式名だが、「千社詣りの札」→「千社札」となった。墨一色の姓名・屋号だけのものが普通だったが、デザイン・色彩が豊かになり信仰と言うより美術品・趣味のものになって行き、交換会も催された。子供たちのカード集めみたいなものかな・・。
 
偉人・奇人列伝:「笹森お仙」
笹森稲荷の茶屋の看板娘、お仙・・・なんで偉人・奇人なのだ。いろいろ説明して「こうして見ればお仙自信は偉人でも奇人でもなく普通の娘だった」と書いているが、そんなこと始めから分かっていることではないか・・そろそろ種切れかな。11~12歳の化粧気のない少女が鈴木春信の目に留まって浮世絵のモデルとなって一気にスターダムにのし上がり、手ぬぐい・双六・人形などのグッズが人気を呼んだ。そして人気絶頂期に突然姿を消したが、密かに武士(倉地政之助)と結婚し子沢山で長寿を全うしたと言われる。「山口百恵」みたいな人生だね。