今日は寒いねぇ。明日のゴルフのために手袋を買いに行った。
前回は、とにかく指先が冷たくて参った。ポケットの中に使い捨てカイロを入れておいたが、手を入れてもなかなか温まらない。ポケットの中で他の物と一緒になってグチャグチャニなる。それに右のポケットに左手を入れるのは難しい。カイロを取り出して暖めようとするが、外気温が低くて暖めているのか冷やしているのか分からない。
そこでカイロを指先に入れられるミトンタイプの手袋を買おうとしたのだが、なかなか売っていない。ゴルフショップに行けば売っているはずだが、遠くていやだし多分高い・・。
そこでカインズで買ったのは鍋つかみ用のミトン2個・・・2個でも400円以下で安い! カイロは奥まで入るし、親指もまとめて入れても十分なサイズだ。ちょっと恥ずかしいが、街を歩くわけでもなし・・明日、試してみよう。ミニカイロも仕入れた。左右兼用なので、貼るタイプのカイロを入れておいて、左右入れ替えて使えば、「手の甲」用にも「手の平」用にもなる・・・と、なくさないように二つを紐で繋いで自画自賛!
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「名所江戸百景」今昔:「四ツ木通用水引ふね」
葛西用水、亀有用水とも呼ばれた四ツ木通用水・・江戸の本所・深川に飲用水を送った。この水路を利用して曳舟(客船)が始まったので、曳舟川と呼ばれるようになった。今は埋め立てられているが、四ツ木から亀有まで曳舟川親水公園として整備されている。
  
読み解き江戸時代:吉宗の幕引き、「紀州徳川家の血を後世まで」
吉宗の長男家重は病弱、言語不明瞭で酒色に溺れていた。次男宗武は文武両道に優れていたので、誰もが「兄弟入れ替わっていれば・・」と歎いた。しかし、吉宗は後々の後継争いの火種にならないよう「長子相続」のルールを守った。そのために吉宗は「将軍の力量によらず円滑な政権運営ができるよう」体制を整えて引退した。また自らの直系の分家(後に田安家・一橋家・清水家の「御参三卿」)を将軍の家族として扱い、将軍継承優先順位では御三家より上に置いた。このことによって、十五代将軍慶喜が就任するまでは吉宗の血を引く男が将軍を務めて家重以降100年以上の安定政権が続いた。
 
街道を行く:金比羅参りの旅、東海道51「石部宿」
讃岐の象頭山(ぞうずさん)中腹にある金比羅宮は当時人気の参詣地であった。大坂以東の人々は難波津(道頓堀)から数日間金比羅船に乗って丸亀に上陸し金比羅さんに向かった。清水次郎長の代参で金比羅宮を参拝に訪れたが、旭社という金堂があまりにも立派なのでここを参拝して本宮に行かずに帰った・・というのは浪曲の作り話だよね。
京から約37キロ、京からの旅人が最初に泊まる宿場だった。生真面目で融通の利かない男のことを「石部金吉」と言うのは、ここから始まったという説もある。石部宿の近くには銅山(黄銅を産出)があって、昔は石部の金山(かなやま)と呼ばれたらしい。
  
三都&町物語:江戸「三囲神社」、秋田「久保田」
現在墨田区の向島にある三囲神社。宝井其角が雨乞いの句を詠んだら雨が降ったという逸話に基づく句碑がある。江戸に出店した三井家がこの話に感心し、三井を守るような名前のこの神社を氏神として崇めるようになった。三井越後屋に祀られていた恵比寿神と大黒神がここに祀られた。
久保田は秋田藩の城下町・・・佐竹義宣が秋田に転封されてやってきたとき窪田(久保田)に居城を開いた(秋田城ではなく久保田城)。「久保田」は今では清酒の方が有名かな。
  
日本全国「藩」事情:「桑名藩」
江戸幕府成立期の初代藩主は本多忠勝・・・井伊直政、榊原康政、酒井忠次とともに徳川四天王と呼ばれた。二代藩主忠政は大坂の役の戦功を挙げ、その子忠刻は豊臣秀頼の正室であった千姫を娶った。その後松平定勝が入封して以来、徳川一門が藩主を務めた。
 
暮らし大全:「百花繚乱、江戸の博物図譜」「使い方いろいろ、手ぬぐい」「福を招く、めでたい餅」
吉宗は殖産興業政策の一環として全国の産物調査を実施し、各藩に領内の動植物のリストを作成させ、名前だけでは分からないものは正確な図と説明を提出させた。これがきっかけとなって博物図譜ブームが起き、江戸後期には岩崎灌園の「本草図譜」、飯沼慾斎の「草木図説」などの代表的な植物図譜が生まれた。
手ぬぐいはもちろんハンカチ・タオル・キッチンペーパーなどの役目を果たすものだが、むしろ「かぶりもの」としてよく利用された。かぶり方やデザインも多種生まれ、山東京伝は「手拭合(てぬぐいあわせ)」という展覧会のようなものを催し、酒井抱一や喜多川歌麿などがデザインしたものを展示した。
江戸時代の初期には餅をつくのは女性の仕事だったらしい。元禄の頃には男性も餅つきに参加するようになり、天明の頃になって「男が搗いて女が捏ねる」スタイルになった。粟餅というのは粟を搗きこんだ黄金色の餅で神社の露天で売られていたそうだが、子供の頃我が家で粟餅を搗いていたことを思い出す。
 
偉人・奇人列伝:「穎玄」
歌舞伎で人気の法界坊という破戒僧のモデルは近江国上品寺の住職穎玄だと言われる。歌舞伎では女道楽と飲み食いに明け暮れる僧だが、実像はまじめな僧だったらしい。ではなぜモデルになったの?
寺の再建のための寄付集めのために旅に出た穎玄は新吉原で「遊女たちの死後の救済」を説き、遊女たちが寄付を集めてくれたという。遊女を供養する釣鐘を作って、上品寺に持ち帰り、寺を再建したとされる。今も残る鐘には吉原の遊女たちの名前が刻まれている。