昨7日は本年の打ち始め・・・新ドライバの打ち始めでもあった。朝の内は、そこそこの風(館山では普通?)と冷え込みで大変寒かったが、無事1.5ラウンドを終えて4時過ぎのバスにも何とか間に合った。
寒いといっても全身が寒くて困るというわけではなく、「手が冷たい」のが困りものだった。携帯用カイロではなかなか温まらなくてダメだ・・ヒーター付きの手袋を売っていないかなぁ。
スコアはまずまずだったが、ドライバーの効果は今ひとつ不明だった。飛距離もミスショット率もあまり変わらないような気がしたが、暖かくなって身体が動くようになってから評価してみよう。
O原さんには10and9で圧勝・・・S口さんにも6and4で勝利したが、相手の不調に助けられた面も多々あった。
しかし、池方向に飛んだ球が生きていたり、OBの中の木に当たって球が出てきたり、前カートに当たってOBを免れたり等々つきまくったのも勝因?「こいつは春から縁起がいいやぁ」???
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「名所江戸百景」今昔:「八ツ見のはし」
日本橋川にかかる日本橋の西隣、今でも「一石橋」という別名で呼ばれている「八ツ見の橋」。南に後藤庄三郎の、北に後藤縫殿助の屋敷があったため「ごと(後藤と五斗)」と「ごと」で合わせて「いっこく(一石)」・・というダジャレだったらしい。またここからは日本橋や江戸橋など七つの橋が見えたので一石橋を加えて「八ツ見の橋」とも呼んだらしい。
  
読み解き江戸時代:司法にも改革の手を!、「公平無私の裁きを目指す」
以前の裁きは「法典」によるものではなく「裁量」によるものだった。これを吉宗が改め民事や裁判のための法典「公事方御定書」を作った。この法典は「主従関係」を重視しており、放火や強盗殺人より主人殺しの方が重罪だった・・・どっちも死刑だけど。死刑の次が遠島などの追放刑で、過料・敲・入墨などの刑が続くが「懲役刑」というのはなかったらしい。
吉宗は裁判のスピードアップのため「相対済令」を発布している。当時の民事訴訟のほとんどは金銭トラブル・・他の訴訟が滞るのを避けるため「借金関係の訴訟は取り上げない・・当事者の話し合いで解決せよ」というものだった。しかし、負債に苦しむ旗本や御家人たちの財政破綻からの救済策(借金の踏み倒しの黙認)でもあった。
 
街道を行く:「講」、東海道50「水口宿」
寺社詣の旅のほとんどは「講」による団体旅行だった。講は特定の有志が組織を作って、講員は講費を積み立て、その講金は代表者の参拝や旅に使われた。もちろん何年かに一度は自分の番が廻ってくる公平なものだった。
なお私の田舎では小さい頃「講」があって、我が家でも二つの「講」に属していた。講金は講員への短期融資にも使用された。講費を講員に配分するという考え方が、いわゆる「ねずみ講」の元にもなっているのだ。当時も講金を使い込んだり、貸付に失敗したりすることはあったようだ。
水口宿は伊勢参宮道の要である。宿場の中で街道が3本(東海道と脇道2本)に分かれる「三筋の通り」でも知られる。外れの横田の渡し近くには京・大坂の商人たちが寄進した東海道最大級の大常夜灯(高さ10.5m)があって今でも残っている。
  
三都&町物語:江戸「日本堤」、近江「三井寺」
公認遊郭吉原へ向かうために?築いた土手・・・それにしても日本堤とは大げさな名前だ。全国の大名を動員して作ったからだという説もあるが、当初は土手が二本あって「二本堤」と総称されていたというのが真実らしい。
近江八景の一つ「三井晩鐘」・・・近江の名刹「三井寺」は飛鳥時代の創建だ。正式名称は長等山園城寺(おんじょうじ)・・天智・天武・持統の三天皇の産湯を使った霊泉があることから、「御井の寺」→「三井寺」と呼ばれた。
  
日本全国「藩」事情:「高田藩」
今は新潟県上越市の越前高田・・・高田城は珍しく石垣のない平城である。初代藩主松平忠輝(家康の六男)は改易・配流されて、その後藩主となった酒井家のあと越前松平家が一時藩主を務めた。その初代藩主忠昌が福井藩主となったとき、入れ替わりに甥光長が二大藩主として入封した。忠昌は家康の子結城秀康の子で兄忠直の失脚に伴って福井に入り、忠直の子光長が高田に来たというわけだが・・ややこしい。
 
暮らし大全:「願い事は絵馬におまかせ!」「海の彼方からやって来る七福神」「晴れ着で気分も一新!正月の装い」
絵馬は元々「生き馬」を奉納していた風習が「絵」で代替されるようになったものだということはよく知られている。絵馬の歴史は古いが江戸時代には庶民の心の拠り所となって、さまざまな願い事が絵に描かれるようになった。「算額」という和算の問題やこれに対する回答の絵馬も人気だったらしい。和算はいわば「数学パズル」のようなもので、書物の発刊より簡便な「算額」なら誰でも気軽に奉納できたのだ。
七福神の出自はさまざまだ(インドや中国や日本の古神道の神様など)。これは天海が家康に仏教の尊さを説いて七つの徳目が人生に必要としたことに由来し、これに各地の有名な神様を当てはめたからだ。その対応は「寿命=寿老人」「裕福=大黒天」「清廉=恵比須神」「大量=布袋尊」「威光=毘沙門天」「愛敬=弁財天」「人望=福禄寿」である。
共通の休日は年に一度の元日しかなかった。正月には晴着を着込んで日の出を拝んだり、挨拶回り(年賀)に出かけた。めでたい柄の晴着や新調した着物が着られたが、あまり金のない人は羽織・帯・履物など何かしら新調して新年を迎えた。
 
偉人・奇人列伝:「山片蟠桃」
合理主義を貫いた播磨(今の高砂市)の町人学者・・辞世の句「地獄なし 極楽なし 我もなし ただあるものは 人と万物」「神ほとけ 化け物もなし 世の中に 奇妙不思議のことはなおなし」。書物を読むことしかない丁稚を拾って勉強させてくれた主家升屋の幼い主人を助けて、その卓越したビジネスセンスで再建し、主家升屋の山片姓を名乗ることを許され、「番頭に因んで蟠桃」という雅号を付けたと言われる。