昨日の強風に比べて今日は穏やかな日だ。結局昨日は館山で1.5ラウンド・・・東京湾フェリーの朝の出航は危ぶまれたが、結局一日中運航したようだ。強風のおかげでスコアはメタメタだったが、Y口さんとの勝負には勝利した。
今日はしばらくやっていなかった農作業・・生ゴミ処理機から出た乾燥生ごみが2回分になったので堆肥作りをした。秋口から貯めておいた落ち葉・・結構いい腐葉土になっている・・と土を混ぜて、ビニール袋に入れて、少し水を撒いて、口を閉めて保存する。結構貯まってきたので、夏野菜を植えるときに利用しよう。菜花がだいぶ成長してきたので、そろそろ収穫が始まる。スナックエンドウを(直播きしたのだが発芽率が5,6割だったので、ポット蒔きの5本を畑とプランターに)定植した。
今日はしばらくやっていなかった農作業・・生ゴミ処理機から出た乾燥生ごみが2回分になったので堆肥作りをした。秋口から貯めておいた落ち葉・・結構いい腐葉土になっている・・と土を混ぜて、ビニール袋に入れて、少し水を撒いて、口を閉めて保存する。結構貯まってきたので、夏野菜を植えるときに利用しよう。菜花がだいぶ成長してきたので、そろそろ収穫が始まる。スナックエンドウを(直播きしたのだが発芽率が5,6割だったので、ポット蒔きの5本を畑とプランターに)定植した。
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「名所江戸百景」今昔:「高田の馬場」
高田の馬場って旗本の弓馬調練用に作ったらしいけど、東西6町、南北30間の随分細長い敷地だったんだね。高田の馬場の決闘で有名な中山安兵衛は後に赤穂藩堀部家の養子になって、赤穂義士に加わった。絵の手前に的があって、矢が転がっている。一本も当たっていないように見えるが、練習用の矢の先端に丸みを持たせて刺さらないようにしていたんだって。そうだよね、外れたのならここに落ちているはずがない。
読み解き江戸時代:享保の大飢饉、「大凶作が西日本を襲う!」
享保17年西日本を襲った大凶作と大飢饉・・・害虫であるウンカの大繁殖が原因だった。ウンカは1センチ以下の体長のセミのような形をしており、水田に鯨油や菜種油を撒くと駆除できたらしいが、西日本では3年前から台風被害などで凶作が続いていて、油を買う金もなかったのである。餓死者は12000人・・その半数近くは伊予国松山藩で、藩主は対策を怠ったということで謹慎処分になった。
街道を行く:橋と旅、東海道49「土山宿」
大きな川に橋を架けようとすると、すぐに流されてしまうため六郷川(多摩川)、馬入川(相模川)などには橋がなく渡船であった。それでも30間を越える橋は13もあった。中でも最大は矢作川の矢作橋で208間もあった。日本三奇橋とは大月の桂川・猿橋、岩国の錦川・錦帯橋、木曽川・桟(かけはし)。
鈴鹿峠を越えて近江の国最初の宿である土山・・昔このあたりに蟹の化け物が出て人々を悩ませていたが、旅の僧が諭したので出なくなったという伝説があり、「蟹が坂」という坂があって近くには「蟹塚(五輪塔)」がある。「かにが坂飴」という蟹の甲羅を模した厄除けの飴が名物になっている。
三都&町物語:江戸「芝赤羽橋」、大坂「曽根崎」
「江戸名所道戯尽」は江戸の名所の道で起きる面白いことを描いたものらしいが、その内の「芝赤羽はしの雪中」では赤羽橋のたもとで雪に滑って転倒する男と、その男の下駄が向かいの男の顔面を直撃する様が描かれている。
堂島の北、曽根崎川の北側は曽根崎村で、曽根崎川の川岸が開拓されて曽根崎新地ができた。ここに示される地図では、今の北新地駅付近を曽根崎新地としているが、当初の曽根崎新地(遊郭)はもっと西にあって、後に東側に繁華街が延びて、今の北新地となっているのだ。
日本全国「藩」事情:「津和野藩」
今年の初めに法事のついでに津和野、萩などに出かけてきたので記憶も新しい。千姫を大坂城で救出し、後に千姫強奪事件を起こして死んだ坂崎直盛・・坂崎家は断絶となり、亀井家が入って幕末まで代々藩主となった。国民新党の亀井もここの子孫?
暮らし大全:「大奥から町人まで、師走は毎日大忙し」「歳の終わりに年越し蕎麦」「幅広く愛された知的ゲーム『将棋』」
大奥も、武家も、商家も、一般商人もみんな十二月十三日には「煤払い」で忙しかった。江戸時代には屋内にかまどがあったので、天井などに煤がたまる。これを葉のついた笹竹で払い落とした。また煤払いは年神を迎えるための儀式なので吉日の「鬼宿日」つまり十二月十三日に行われた。十五日を過ぎると餅つき、歳の市と行事が続いた。
最後の行事は大晦日の年越し蕎麦・・・実は毎月の晦日に蕎麦を食べて無事にひと月を終えた感謝と祝いの習慣だったらしいが大晦日がもっともポピュラーだった。そして除夜の鐘・・・新年を迎える。
今では将棋盤の桝目は9×9だが、昔は桝目36×36、駒数804枚という巨大な将棋もあったらしい。
偉人・奇人列伝:「司馬江漢」
西洋画のパイオニアとして知られる司馬江漢。日本最初の銅版画を制作、油絵を手がけるなど新し物好きだった。「和蘭茶臼(おらんだちゃうす)」というコーヒーメーカーも作ったらしい。文化5年62歳の時から9歳加えて年齢詐称(笑)、文化10年には自らの死亡通知を印刷(版行)して配るなど面白い人物だった。