土曜日も今日も強風が吹いている。土曜日は朝からフェリーが欠航し、今日は午後から欠航しているらしい。天気予報によれば明日も強風で、館山の午後は10メートル/秒以上になりそうだ。明日、打ち納めの予定だが中止になるかも・・・。

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「名所江戸百景」今昔:「鎧の渡し小網町」
日本橋川の茅場町と小網町を結んでいた鎧の渡し・・・昔源義家がここで暴風に遭って鎧一領を水中に投じて竜神に祈願して難を逃れたという故事に基づいて「鎧が淵」と呼ばれてことに因む。元々は漁師が網を干したことで付けられた地名だが、水運がよかったので絵のように蔵が建ち並ぶようになった。
  
読み解き江戸時代:小石川養生所の開設、「貧しい庶民に医療の手を」
吉宗は紀州藩主時代にも「訴訟箱」を和歌山城の前に置いたが、将軍となって「目安箱」で庶民の声を聞くと言う前代未聞の政策を実施した。これに対する小川笙船という町医者の提言が元になって養生所が開設されたと言われる。目安箱は庶民しか提案できない仕組みだったが、主な目的は役人の不正を暴くことにあった。トップにいるものには届きにくい情報を直接得て、人事改革を行ったのであろう。最初は「人体実験をしようとしているのでは?」と疑われた。
 
街道を行く:大山詣、東海道48「坂下宿」
当時の観光旅行は信心とセット(口実?)になっており、大山と江の島詣でをセットにし、さらに鎌倉に立ち寄って、だいたいは5泊6日のぐるめ旅行だったらしい。久里浜の住吉神社に残る日記でも宮司の息子たちの旅行の様子が書かれている。江戸に帰る場合は金沢遊郭で遊んで、川崎大師に立ち寄って、さらに品川遊郭で遊ぶ・・という贅沢旅行もあった。
シーボルトは坂下宿でオオサンショウウオを入手してオランダに生きたまま持ち帰り、欧州の学会に発表した。これによって「日本のオオサンショウウオ」が世界的に知られることになった。英名:Japanese Giant Salamander、学名:Andrias Japonicusはこのため?
  
三都&町物語:江戸「築地」、肥後「熊本」
築地は明暦の大火後埋め立てられたとされる。築地本願寺などの代替地を作るためである。海面だったところを埋め立てたとされるが、干拓だったかもしれない。築地本願寺は西本願寺の別院で、ちなみに東本願寺の別院は浅草本願寺である。
当初は「隈本」という地名だったが、加藤清正が入城して「熊本」に改めた。
   
日本全国「藩」事情:「田原藩」
田原藩が愛知県にあったなんて知らなかったなぁ。渡辺崋山は若い頃貧乏で生計を支える為に絵を学び、20歳代半ばで名を成した。田原藩士の崋山は紆余曲折を経て40歳の頃家老職に就き、藩の改革に取り組んだ。
 
暮らし大全:「『いき』と『いなせ』の江戸っ子」「クリスマスin出島」「江戸の甘みは『みりん』で!」
「いなせ」とは「いきで、勇み肌で、さっぱりしているさま」と説明されていて、「いき」とは「気質・態度・身なりなどがさっぱりと垢抜けしていて、しかも色気があること」とある。両者は江戸っ子の気質を示す言葉だがダブっているね。「いなせ」は硬派、「いき」は軟派とも言えるだろうか?
隠れキリシタンは日本の収穫祭である霜月祭の時期に「霜月どん」などとクリスマスの名前を変えて祝ったらしい。出島のオランダ人は「阿蘭陀冬至」としてクリスマスを祝った。日本人も招待されたが、宗教的行事であることには誰も気づかなかった。
「みりん」は元々はお酒で、女性用だったらしい。料理に使われるようになったのは江戸後期であり、蕎麦つゆや鰻の蒲焼のたれとして欠かせないものになっていった。
 
偉人・奇人列伝:「蔦谷重三郎」
「蔦谷」は今の「ツタヤ」の命名の元になった江戸時代の総合出版社である・・子孫ではないと思う。読本(よみほん)や黄表紙などの大衆小説、浮世絵版画などが庶民の間に浸透して行ったのは蔦谷重三郎の功績であった。十返舎一九や喜多川歌麿、東洲斎写楽などを発掘した。