月曜日は雨でゴルフは中止になったので、急遽昨日水曜日に予約して館山に行って来た。結構空いていたので朝8時15分(予定は21分)ごろにスタートしてスルーで12時過ぎにラウンド終了して食事、13時スタートで15時には1.5ラウンド目を終了した。最近では最速だったと思う。
O原さんとの勝負は圧勝(5アンド4)したが、やたらOBの多い日だった。午前中は結構風の強い日だったが、風以外の原因でも大叩き(パーオンから4パット、アプローチミスと3パット、まっすぐ飛んだはずなのにロスト)が多くて満足なスコアではなかった。
今年はあと1回でラウンド納め・・。今年はがんばったので、年間30ラウンドあまり・・。
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「名所江戸百景」今昔:「鴻の台とね川風景」
利根川は今の江戸川のこと・・つまり利根川の本流は江戸湾に流れ込んでいた。江戸時代の初めまでに利根川の流れを東側につないで本流とした(利根川東遷事業)ので銚子のあたりで太平洋に流れ込むようになった。しかし江戸川は利根川とも呼ばれた。今でも江戸川、荒川(放水路)、隅田川は同じ水源から流れているようだ・・。
鴻の台は今は国府台と書くが、当時も両方の書き方があったようだ。
  
読み解き江戸時代:米将軍の財政改革、「享保の改革における最大の難題」
吉宗は財政再建策の一環として新田開発を推進した。江戸時代初期にも新田開発ラッシュがあって一段落していた。私が研究対象にしている砂村新左衛門の砂村新田、内川新田、吉田新田などは初期のものである。・・ということは開発されていなかったところを開発する、つまり大変な難工事を伴う場所が対象になったのだ。そこで幕府に「新田方」という役職を置き新田開発を指揮したのだ。さいたま市の区名にもなっている「見沼代用水新田」は土木技術者で勘定吟味役の井沢弥惣兵衛が指揮して開発したもので、吉宗に信頼され数々の新田開発を手がけた弥惣兵衛は「治水の神様」と呼ばれた。内川新田に来て改良工事をやってくれたらよかったのに・・。
 
街道を行く:人気観光スポット⑤修善寺温泉、東海道47「関宿」
修善寺温泉は空海(弘法大師)が開湯したと伝わる。桂川で病身の父の身体を洗う少年をみかけた空海が、川にあった岩を「独鈷」で叩くと、温泉が湧き出し、その湯に入った少年の父の病気が治癒したという伝説である。「独鈷」とは独鈷杵とも言われる仏具で握り部分と両方に伸びる「杵」部分からなる仏具である。「弘法大師が独鈷で・・・を叩いたら・・・」という伝説は全国に無数あり、ほとんどが作り話らしいけど。
「精一杯の限度」という意味の「関の山」という言葉はここ関に由来するらしい。ずっと(昔不破・愛発と並んで)「天下の三関」と呼ばれた「鈴鹿の関」はこの近くにあったらしい。
  
三都&町物語:江戸「目黒」、京「錦小路」
坂の多かった目黒、とりわけ急坂だった行人坂(今は目黒駅南側から南西へ下る)が上りきったところからは富士山の眺望がすばらしく、そこにあった茶屋は富士見茶屋と呼ばれて人気を呼んだ。
今でも人気の錦小路の平安京誕生の頃の名前は「具足小路」だったらしいが、いつの間にか「尿(くそ)小路」という名前に訛ってしまった。御冷泉天皇が近くの綾小路があったので「綾錦」という美しいものを形容する言葉に因んで錦小路に改名させたと伝わる。
  
日本全国「藩」事情:「山形藩」
口紅や染料の材料となる紅花・・・山形は最大の産地だったらしい。「紅一匁、金一匁」と言われるほど高価だったらしいが、もちろん花のことではなく加工後のことだろうけど・・。紅花は乾燥して干し花(紅餅とも言った)を京の紅花問屋に卸され、多くの紅花豪商を生んだ。「最上紅花」は「阿波の藍玉」と並ぶ二大染料だった。
 
暮らし大全:「ズラリ!江戸の美女&美男」「江戸グルメを支えた、酢」「江戸のトイレ事情」
時の浮世絵師が描いた美人画が「美女の見本」となり、その時代のトレンドを反映した。明和美人、天明美人、文政美人、寛政美人が有名だが、天明美人はなんと10頭身・・・昔から小顔がもてはやされたんだ・・。一方「江戸の三男」というイケメンの多い職業は「力士」「与力」「火消の頭」だって・・。
「酢とからし買う程一分のが残り」・・・高い初鰹を買うと、ちょうど酢とからしを買うだけの金が残っていた・・・という川柳だ。当時は鰹を「からし酢」で食べていた。
長屋のトイレはもちろん共同便所。ここでたまった屎尿は農家あるいは業者が引き取っていったが、金を払うのは持っていくほうだった。つまり屎尿は売り物だったのだ。長屋の屎尿の権利は大家のもので、店子が30人いると業者が暮に1両(約15万円)置いていったというから商品価値は高かった。
  
偉人・奇人列伝:「村田春海」
干鰯問屋村田屋の次男として生まれ、連歌師の養子となっていたが、父の死後家督を継いだ。しかし放蕩の限りを尽くしたため財産を失ってしなう。干鰯問屋の不況も原因だった。40歳過ぎてから国学に力を入れ、歌道の師範と文筆を生業とし、松平定信にも才能を認められ扶持を与えられるようになった。父が賀茂真淵と交友関係にあり、若い頃真淵に入門して歌学や国学を学んだことが基礎となっていたのだろう。