年末の大掃除・・というわけでもないが、昨日から外壁・雨戸の清掃に着手した。昨年購入した高圧洗浄機を使うので電気代が高くない午前10時には終えるので一度には終らない。今日は起きるのが遅くなってしまったので延期・・・いい加減な生活だね。外壁の苔(陽のあたらない面は半年くらいで緑色になってくる)を飛ばすには高圧洗浄機がベストだ。ことしは雨戸・網戸・ガラス戸の洗浄をやっている。雨戸はルーバー式なので内側にもほこりが溜まってしまう。まずルーバを全開して内側を流し、雨戸を開けて網戸とガラス戸を洗浄し、雨戸(ルーバ全閉)の外側を流す。2階の雨戸は接近が難しいので、これも高圧洗浄機の使用が便利だ。明日は南側の雨戸・網戸・ガラス戸とベランダ内側の清掃予定だ。
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「名所江戸百景」今昔:「金杉橋芝浦」
芝浦は当時海老(海老様ではない)の名産地で「芝海老」の名前の由来とされる。築地方向を望む芝浦沖の手前に描かれた幟に書かれている文字や寺紋は日蓮宗を表しており、池上本門寺の参詣者らしい。団扇太鼓やばちを持っているのも日蓮宗信者の特徴だ。手前の河口は渋谷川の下流、金杉川。
  
読み解き江戸時代:吉宗の人材登用術、「これからは完全実力主義!」
吉宗は次々に改革を断行していく・・・(菅さんも参考に・・・でも権力が違うか)。その中で面白いのは「大奥リストラ」だ。吉宗は「大奥の美女50名を選べ」と命じ、選ばれた者を解雇した。「美人なら縁談も多いだろう」というのが理由だが・・。本当は男好きだった?
 
街道を行く:川崎大師と江の島への旅、東海道46「亀山宿」
近場の信仰を兼ねた観光地、川崎大師と江の島・・・その人気の源は?。将軍家斉が前厄祈願で参詣したとき、直前に隆円上人が急死したことを知り、自分の厄の身代わりになったと感じて50石の寺領を寄進したと言う。そこで一躍「厄除け大師」として人気に・・。江の島弁財天は全裸で琵琶を抱える姿から音楽芸能の守護神として人気役者や奥女中団体、長唄などの女師匠などが多く訪れて華やかさを競った上に、アワビなどの海産物が人気を呼んだ。
「元禄曾我」と呼ばれる敵討ちで有名な亀山宿・・・と言われても今まで全く知らなかった。
 
三都&町物語:江戸「雑司ヶ谷」、佐渡「佐渡」
一説には法明寺の雑司料(税や物資を納める支配地)だったと言われる雑司ヶ谷。法明寺の鬼子母神は有名だが、鬼の字の上の点は書かないらしい。よその子をさらって食べる悪神だったが釈迦の戒めによって善神となったので「角」を取ったのだと・・。
父観阿弥と並んで有名な猿楽師世阿弥が流されたことで知られる佐渡は江戸時代になって金山として栄えた。金山管理を担う佐渡奉行のほか銀山管理の石見奉行なども兼任したのは大久保長安・・・彼の祖父も父も猿楽師だった(武田信玄が武士として取り立てた)というのも面白い。
  
日本全国「藩」事情:「琉球王国」
琉球は藩ではないが薩摩藩の属国として幕藩体制に組み込まれた。江戸幕府成立の前後で活躍した役人儀間真情は野国総官という役人が中国から持ち帰ったサツマイモの苗を貰い受けて琉球全土に広め、また中国に人を派遣して(サトウキビからの)製糖技術を取り入れた琉球産業の功労者である。
 
暮らし大全:「ブランド街に並ぶ江戸の大店」「語り続けられる都市伝説」「男の”ひげ”事情」
本町(今の日本橋本町、本石町、室町の一部)は当時のブランド街(あこがれの商業地)だった。呉服の三井越後屋(後の三越)、大丸、白木屋、紅白粉の柳屋、茶と海苔の山本山など現代にも続く名店が並んでいた。須原屋という書物問屋は江戸を代表する本屋だったらしいが、今浦和に本店を置く㈱須原屋(明治9年創業)との関係は不明だ。
麻布・千住・豊島・八丁堀などにそれぞれ伝わる「七不思議」・・・とりわけ「本所七不思議」は最も有名だった。七つ以上伝わっているが代表的には「置行(おいてけ)堀」「送り提灯」「狸囃子」「消えずの行灯」「足洗い屋敷」「片葉の葦」「送り拍子木」・・いずれも怪しい話だが江戸っ子は怖がりながらも好きだったのだろうね。
信長や秀吉はひげを生やしたが家康ははやしていない。そのせいかどうか江戸時代にはひげは反逆のしるしと取られかねず武士のひげは衰退した。中期に下級の武家奉公人の間でひげブームが起きたが、「大ひげ禁止令」も出て廃れていった。
  
偉人・奇人列伝:「月僊」
伊勢山田の寂照寺に移り住んだ月僊は廃寺同然の寺を再興するため、求められるままに多くの絵を描いたが、画料をきっちり受け取るので「金に汚い」と非難された。動じることなく蓄財に努めて寂照寺を再興すると共に山田奉行に金を預けてその利息で窮民救済基金(後に「月僊金」と呼ばれる)を設立した。