強風が荒れ狂っている。今年は台風の接近があまりなかったので、今回が最大風速で、最長時間かもしれない。野菜や鉢物の対策は一応昨晩やっておいたのでたいした被害はなかった。小さなビニール温室がぶっ飛びそうになったが、何とか持ちこたえている。風がやんだら修理する必要がある。
昨日はアロエベラを収穫して、皮むきしてボイルし、シロップ漬けにした。シロップはこないだ栗の渋皮煮とマロングラッセを作って残ったものだ。姪の夫の実家で採れる栗を毎年送ってもらっているので、毎年渋皮煮を作っているが今年はマロングラッセに挑戦した。結晶化には失敗したみたいだが、味はまぁまぁだった。お礼に「アロエベラの栗シロップ漬け」と「アピオス」と「ハバネロラー油」を送ることにして荷造りした。全部自家製の材料だ・・気に入るかどうかは、どれも未知数・・。
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「名所江戸百景」今昔:「飛鳥山北の眺望」
飛鳥山は上野や向島と並ぶ桜の名所だ。毛氈を敷いて桜と遠くに見える筑波山の眺望を楽しんでいる。飛鳥山では鳴り物や踊りが許されていたため、見かけよりずっと騒々しかったそうだ。そう言えば、座って花見をしている人たちの手前に、集団で傘を使って踊っている女性たちや、扇を使って何やら掛け合いのようなことをしてる男二人組みが見える。
  
読み解き江戸時代:町火消の誕生、「『火事と喧嘩は江戸の華』なんて冗談じゃねぇ!」
それまで大名による「大名火消」、旗本による「定火消」、町人による「店火消」があったが、素人集団の「店火消」をしっかりした組織とし「定火消」との役割分担などを明確化させたのは吉宗である。そして「町火消」「いろは47組(後に48組)」が結成された。江戸ではない隅田川の東側には本所深川16組が配置された。「へ組」「ら組」「ま組」はあまりいいことを連想しないので、「百組」「千組」「万組」と名付けられた。追加されたのは「本組」だ。
 
街道を行く:東海道45「庄野宿」
庄野を最も有名にさせているのは、広重の東海道五十三次シリーズの中でも傑作とされる「庄野 白雨」だ。しかし、庄野にはそのような風景はなく、広重の想像によるものというのが専らの説となっている。
 
三都&町物語:江戸「御殿山」、相模「鎌倉」
京浜急行線が品川から北品川、新馬場へ向かうこの辺りは昔海岸だった。御殿山は北品川の少し南西にあった小高い桜の名所だったが、東海道線の工事などによって切り崩され今は面影もない。
源頼朝が幕府を開いたとき鶴岡八幡宮を中心に町づくりしたのが鎌倉・・しかし江戸時代初期には寂れてしまっていた。「仮名手本忠臣蔵」の主要舞台は鎌倉で、刃傷事件が起きたのは鶴岡八幡宮、本懐を遂げて訪れたのは光明寺・・という風に描かれている。
  
日本全国「藩」事情:「宇和島藩」
宇和島城を築いたのは藤堂高虎だが、宇和島藩の立藩は伊達政宗の長男秀宗の入封によるもので、それ以来伊達家が藩主を務めた。八代藩主宗城は松平春嶽(福井藩主)、山内容堂(土佐藩主)、島津斉彬(薩摩藩主)と並び「幕末の四賢侯」と称された。
 
暮らし大全:「大道芸の黄金時代」「江戸のタクシー、駕籠」「職人技が光る、和時計」
独り相撲、綾織(ジャグリング)、角兵衛獅子、人形まわしなど見事な芸も多かったが、くだらないものも多かった・・・金になるなら何でもする庶民の知恵か、江戸っ子のユーモアか。
最初の頃は町人が利用できる駕籠は街道筋に限られていた。それが「町駕籠」として市中でも利用できるようになった。しかし利用できるのは老人、病人、女性、子供に限られた。仮病や女装して駕籠を使って逮捕される違反者が多かったそうだ。後(享保年間)には町駕籠の利用は完全自由化された。
当時は日の出と日の入を基準とする不定時法だったので、時間を等間隔で刻む時計はあまり馴染みがなかった。昼用の天符(テンプ)と夜用の天符を備え15日ごとに重りの位置を調整して不定時法に対応する和時計が発達した。高価で面倒な和時計は実用品と言うより美術工芸品でもっぱら富裕層のものであった。
  
偉人・奇人列伝:「根岸鎮衛」
根岸鎮衛は江戸時代中後期の江戸南町奉行だが、珍談・奇談を1000話も集めた「耳嚢(みみぶくろ)」で有名である。商人または車引きだったという説もある。養子となって家督を継ぎ、努力して出世街道を突き進み、町奉行になった後旗本にまで出世した。下世話に通じた、威張ったり驕ったりしない名奉行として人気を博した。