今日、サントリーから簡易書留郵便が届いた。『サントリー×暴れん坊将軍「天下5麺1年分!」プレゼントキャンペーン』の当選案内だった。6種類のご当地焼きそば1年分が当たった。サントリーのリラックスという糖質ゼロの第3(4?)ビールを48本飲み、妻が2口応募した結果だ。これは我が家では史上最大の「当たり」かもしれない。これは今後の更なる幸運、たとえば宝くじ1等への序章なのか、それとも運の使い果たしなのか・・。
とりあえず焼きそばを楽しもう。富士宮・青森・横手・上州太田・栃木・熊本の名物だよん。
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「名所江戸百景」今昔:「神田明神曙之景」
湯島聖堂の北に位置する神田明神は江戸の総鎮守で、2年に1度の神田祭の際は山車が江戸城内に入って将軍の上覧に供された。ここから下に見える町並みは銭形平次の住んだ明神下、下谷、浅草方面だ。・・と言っても平次は実在の人物ではないけど・・。
 
読み解き江戸時代:八代将軍・吉宗、登場!、「紀州から来た暴れん坊」
昨日奥さんの自殺が報じられた松平健の当たり役「暴れん坊将軍」すなわち八代将軍吉宗は子供の頃から乗馬・弓・槍の稽古を好み身体能力が抜群で、木綿の着物を着て馬を乗り回していた。しかし、紀州藩の四男坊が将軍にまで成りあがった訳は?? 夭逝次男はさておき長男、三男、父親が同じ年に他界して、紀州藩主になったのは陰謀か? 子供のいない七大将軍家継の死に際して起きた跡目相続レースで勝利して将軍になったときにも疑惑があった。御三家筆頭の尾張藩主吉通の急死、本命外でありながら家継死後のあまりにもスムーズな吉宗の将軍就任合意・・。しかし、紀州藩主にしても将軍にしても、藩政・幕政改革に取り組んだ姿は「名君」と呼ばれる。
  
街道を行く:問屋場、東海道43「四日市宿」
問屋場とは人馬の継立と飛脚の運用を行う施設だ。人足や馬は荷物や旅人を全旅程・運送区間に関わるのではなく、宿場から宿場までを担当するものであった。
問屋というのは名主などと同様の役職である。問屋場で働く人間は宿役人と呼ばれ責任者が問屋、補佐役が年寄、事務担当が帳付という役職だった。
室町末期に諏訪神社手前に市場が開かれた・・市場町は4の付く日に市が開かれたことから「四日市」となったと言われる。

三都&町物語:江戸「神楽坂」、大坂「住吉大社」
神楽の音が聞こえたことから名付けられたとされるが、「音源」には高田八幡、津久戸明神、若宮八幡宮、赤城神社の神楽堂・・・など諸説ある。毘沙門天で有名な善國寺がここに来てから、縁日の参拝客(毘沙門参り)で賑わうようになった。
住吉神社は全国に沢山ある(久里浜にもある)が、ここ住吉大社は山口・福岡にある住吉神社と並んで日本三大住吉の一つである。
  
日本全国「藩」事情:「鳥取藩」
安房の国、館山藩主里見忠義は石見銀山奉行だった大久保長安の疑獄に連座した大久保忠隣改易の余波で安房を取り上げれて、倉吉藩に流された。病死したときに殉職した8人の家臣は「八賢士」と称えられ、「南総里見八犬伝」の「八犬士」のモデルになったとされる。倉吉藩はその後廃藩となり、池田氏の鳥取藩に吸収された。
 
暮らし大全:「男のお洒落アイテム」「ハマると抜けられない、賭博」「将軍から庶民まで、大人気の鯛」
男が携帯するものは印籠・巾着・煙草入れ・火打ち袋・煙硝入れ・矢立・・これら「提げもの」を紐で帯に提げる。滑り落ちるのを防ぐのが根付だ。いわゆる装飾品が贅沢(奢侈)として規制される一方、このような実用品(ギア)のデザインは凝ったものになっていった。
江戸初期には庶民も双六や囲碁・将棋を楽しむようになり賭博として行われるようになっていった。江戸中期には囲碁将棋は頭脳競技として普及し、双六も時間がかかるので賭博の対象から外れ、その道具であったサイコロだけで勝負する「賽賭博」やカードゲームの「かるた賭博」が流行るようになった。
今は鮪・鰻・河豚などは高級魚であるが当時は下魚とされた。鯛などの淡白な白身魚が上等とされた。当時の価格は1尾300文(約7500円)程度であったが、恵比寿講の時期になると1両2分(約23万円)にまで跳ね上がったという記事が井原西鶴の書に見られる。天保年間の「番付」によると最高位の大関は鯛で、鱧(はも)、鰹、鱒、鮎、伊勢海老、白魚、生貝、蛸、鱸(すずき)などが続く。
 
偉人・奇人列伝:「本間光丘」
庄内藩酒田の豪商本間光丘は商業と金融によって巨万の富を得たが、これらの多くを藩の財政再建、公共事業、慈善事業に使い、「本間様」と呼ばれて殿様よりも尊敬された。死後123年の大正13年には光丘(みつおか)を祀る光丘(ひかりがおか)神社が建立されるなど、今も酒田の人々から敬愛されている。