義母が突然他界した。6年前に倒れてから話すことも、立つことも、食べることもできず病院で寝たきり状態だったが内臓系など特に異常はなかったので、死の訪れは唐突で、子供たちは誰も臨終に間に合わなかった。
子供たちは何れも関東に出てきており、両親とも田舎から出てきて間もなく義母が倒れたため、こちらにはほとんど知人もなく、「家族葬」ということになった。あまり弔問客のことに気を遣わなくて済み、家族だけでゆったりとした時間を過ごせたのはよかったように思う。
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「名所江戸百景」今昔:「日本橋通一丁目略図」
日本橋通一丁目は今の日本橋一丁目付近で、東海道の八重洲通辺りまでが日本橋通だった。絵に描かれている店は近江商人木村彦太郎が開業した「白木屋」・・・今はCOREDO(コレド)のビル。絵に見えている大きな傘を担いでいるのは住吉踊り(かっぽれ)の一団・・・他の人々の傘(笠)は日除け(日傘)らしい。
 
読み解き江戸時代:大奥スキャンダル-絵島生島事件-、「火花散る、女たちの争い」
大奥で権力を二分した月光院と天英院・・月光院の右腕大奥取り締まり役の御年寄り絵島は増上寺に参詣の帰りに山村座で芝居見物・飲食をして江戸城に帰るとき門限に遅刻する。そしてこの遅刻は大疑獄事件に発展し、絵島は追放された。今村座の歌舞伎役者生島新五郎と密通した罪である。絵島は最後まで密通を認めなかったが、生島は町奉行所で「石抱きの刑」などで拷問を受け「自白」した。さらに老中たちは月光院と月光院派の側用人間部詮房の密通についても絵島に自白を迫ったが絵島は黙りとおした。・・・なんだか厚労省の事件と似ているね・・。
  
街道を行く:成田山参詣、東海道42「桑名宿」
江戸から成田までは16里・・途中の舟橋で往復とも1泊、成田で1泊という3泊4日の旅が普通だった。成田山は江戸時代に12回江戸での「お開帳」を行っている。これ(「出開帳」という)によって知名度が上がり、成田山参詣が人気になったとされる。市川団十郎が初代から代々成田不動に帰依したことも人気に一役買った。
「その手は桑名の焼き蛤」で知られる桑名宿・・・宮宿からの「七里の渡し」は伊勢・熱田を参詣する旅人で賑わった。

三都&町物語:江戸「渋谷川」、信濃「松本」
外苑前駅と国立競技場の中間にある青山熊野神社と龍巌寺・・・その国立競技場寄りを東西に流れていた渋谷川・・もちろん今はその面影もない。今の原宿駅辺りから山手線沿いの南北に方向を変え、芝浦で海に注いでいた。
松本深志高校は進学校で有名だが、地名としては「松本」よりも「深志」のほうが古い。昔「深瀬」という地名で呼ばれていて、「深志」に転訛したらしい。「松本」には諸説あるが、戦国武将小笠原貞慶が父祖の領地だったこの地を家康から授かり「待つこと久しくして本懐を遂げた」と言ったので、「待つ」と「本懐」から、深志城を松本城に改めたということに由来するというのが一説である。
  
日本全国「藩」事情:「郡山藩」
京大坂に近いこともあって重要な防衛拠点であった大和郡山。当初幕府直轄領であったが、その後水野・松平・本多・柳沢など名門大名を置いて統治させた。本多家のお家騒動「九六騒動」が有名。
 
暮らし大全:「江戸のベストセラー」「庶民の甘味、お団子」「子供の健やかな成長を祈る、七五三」
有名なのは「南総里見八犬伝(曲亭馬琴)」「東海道中膝栗毛(十返舎一九)」「好色一代男(井原西鶴)」などの娯楽小説、「唐詩選」「湖月抄」「柳多留」などの趣味教養本、「庭訓往来」「女大学」などの教育書、「塵劫記」「武鑑」などの実用書がある。出版人として有名なのは蔦屋重三郎・・現代のTSUTAYA(つたや)とは直接の関係はないが、創業者が「現代の『蔦屋』となる」として「蔦屋書店」を大阪で開業したと言われる。
串団子の団子の数は幾つ?・・・当初5個のものと3個のものが多かった。5個は頭と四肢を表しており、3個は3色(桃・白・緑)で桜・雪・草を表していた。明和年間に4文銭が登場し一串5個の串団子を4文銭で売ってしまうというミスが多発・・・対策として4個にしたらしい・・ホントかねぇ?
「髪置」「袴着」「帯解」の習俗が通過儀礼として一緒になり、江戸時代前期までは武家の「産土詣」として、後期には民間でも「七五三」として広まった。乳幼児の死亡率が高かったことが背景にある。
 
偉人・奇人列伝:「古川古松軒」
備中国に生まれた(私の先輩?)地理学者・・と言っても、全国各地を巡って地図・スケッチ・解説を記すという実証的な本を書いた。西遊雑記、東遊雑記、御六戦志などの紀行文の形のものが多い。これらの実績はすべて50歳以降のものであり、それまでのことはほとんど不明である。