デアゴスティーニ社の「週刊江戸」を定期購読することにした。江戸時代の初期に砂村新田(江東区)、吉田新田(横浜市)、内川新田(横須賀市)を開拓した砂村新左衛門の研究をしているので、その時代背景を知るのにちょうどよいと思った。しかし、このままでは拾い読みする程度で終りそうなのでブログに内容を紹介したり感じたことを書くことにした。そうすれば少しは丁寧に読むだろうから。
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「名所江戸百景」今昔:「する賀てふ」
駿河町は今の日本橋室町、絵の道路右左に見える越後屋は三越の前身である。後に左側が三越に右側が三井銀行本店になった。越後屋は上方商人の三井高利が江戸に出てきて呉服屋を始め、後に駿河町に移って「現金掛け値なし」という「既製服を量販」するという画期的の商法で大成功を収めた。三越とは「三井の越後屋」の略である。越後屋は後に両替商でも成功し、後には三井銀行になった。
ここがなぜ駿河町と呼ばれるのか? 私は「家康に付いて駿府から出てきた商人たち」の町だったのではないかと思うのだが・・。
歌川広重の「名所江戸百景」は118枚から成る。表紙と裏表紙に使われているので118週は続いてもらいたいものだ・・。    
     
読み解き江戸時代:家康、江戸に入る「なぜ家康は江戸を選んだのか?」
天正18年(1590年)に北条氏を打ち破った秀吉に指示されて、家康は江戸に移った。京から遠く、駿府や北条氏の小田原、あるいは古都鎌倉よりもはるかに田舎の江戸に転封されることに不満を言うものもいたが、策士家康は秀吉の言うことを聞いた。その後、関が原の戦いに勝利した家康は秀忠に「今後の拠点をどこにするか」と相談したものの「私は若いのでお任せします」ということだったので、そのまま江戸にいることにしたと言われる。このとき家康が出身地の東海に帰ると決めていたら、「名古屋城」を拠点として「名古屋幕府」が成立し、「名古屋時代」が続いたかもしれない。「中京」の方が「東京」より真ん中・・というイメージだし(笑)。これは愛知県民が思っていることの代弁・・。
砂村新左衛門は関が原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)越前に生まれた。
   
街道を行く:東海道①「品川宿」
京浜急行で品川の次(南側)の駅が「北品川」というのには違和感を持つ人が多いだろう。品川駅は品川宿より北東側に外れている。明治になって新橋横浜間に鉄道が開通したときに、新橋の次の駅を「品川宿」に因んで「品川ステーション」としたため、港区に品川駅があるという状況になった。北品川はもちろん品川区だ。
品川宿は目黒川(京浜急行の新馬場駅)を挟んで、北東側が北品川宿、南西側が南品川宿、そして後にできた歩行(かち)新宿と合わせて三宿から成っていた。北品川駅は歩行新宿のあったあたりにある。駅名はおそらく町名の北品川(ほかに南品川、東品川)によっていると思われる。
   
三都&町物語:江戸「浅草寺」と京「京都御所と公家町」
   
日本全国藩事情:水戸藩
他の御三家が大納言なのに水戸藩主が中納言なのはなぜ? 水戸黄門光圀の実像は? 桜田門外で井伊直弼を討った水戸浪士とは?・・・などの話が面白い。
   
暮らし大全:「小袖のデザインが物語る時代の波」「江戸のヒルズ、三階櫓」「蕎麦かうどんか」 
     
偉人・奇人列伝「服部半蔵」
本能寺の変のとき京・堺で遊山していた家康が兵を伴わず岡崎に帰還しなければならなくなり、伊賀忍者を使って家康を護衛して無事帰還を成功させ、旗本に任じられた二代目服部半蔵正成の話は興味深い。今も残り半蔵門は服部半蔵に由来する。その子三代目服部半蔵正就が不祥事を起こしお家取り潰しとなってしまう・・・大坂夏の陣に参戦するも行方不明となった・・後に「服部半蔵・陰の軍団」として徳川を支えたという「伝説」も面白い・・。