3次元から4次元への移行について、その象徴的な一つの方向性が「ワクワク」であると言えるかと思います。それは、自らの内側から湧き上がる好奇心を、楽しみながらこの世界を生きると言う事です。

 

そして、もう1つそれを象徴するのが「調和」であると言えるでしょう。それは、人との調和であり、自然との調和でもあります。

 

今回はその「自然との調和」について考えてみたいと思うのですが、それは、自然から必要なものを必要なだけ受け取り、害のない形で自然の中に返すと言う事ではないかと思います。

 

 

これは、精神的な面においても言える事ですが、特に物質的な意味では、私達はその全てをこの地球の自然から受け取っているのです。

 

これまでの3次元世界では、それを大量消費型の社会システムによって強引に奪い取り、自然サイクルにおいて害となる形で次々にゴミとして投げ捨てて来ました。つまり、地球上における自然サイクルを、徐々に崩壊させる行いを積み重ねて来たのです。

 

これをそのまま崩壊させるのか、それとも自然サイクルに調和する形で方向転換をするのかが今問われています。

 

そうした中でこのアセンション期には、既存の競争的な社会システムが崩壊し、一時的に大なり小なりの混乱期が訪れる可能性があります。

 

この混乱期をどう乗り越えるのかを考える時、それを3次元的な枠組みの中で考えるのか、4次元的な枠組みの中で考えるのかによって、大難ともなり小難ともなるのかも知れません。

 

例えば、社会システム・インフラ崩壊時に、食料と共に最大の問題の1つとなるのが排泄の問題であると思います。

 

3次元的な備えにおいては、非常用トイレセットとして、排泄物をそのままあるいは凝固させる事によって袋の中に受け取る所までのものとなっています。しかし、それでは未完了であり、そこからその排泄ごみをどう処分するのかと言う点こそが最大の問題となる可能性が高いのです。今回の混乱時には、ゴミの収集があるとは限りません。

 

この時トイレと庭の土を、簡易コンポストトイレによって循環させる為の知識(コツ)を持っていれば、それをそこまで深刻な問題として経験する必要はないでしょう。これは、水の節約に対しても大きな効果を発揮します。

 

また、食糧危機に対しては、江戸時代が終わった時に武家屋敷の庭に夏ミカンの木が多く植えられたと言う話が参考になります。

 

夏ミカンなどは年に一度の剪定だけをしてやれば、後は何の手間をかける事も無く、日光と雨と土や風や昆虫たちによる自然の恵みとしてたくさんの実をみのらせます。

 

それは冷暗所に保存しておけば、そのままでも数ヶ月の保存をする事が出来、工夫次第で皮も食べる事が出来ます。

 

家庭菜園が有効な手段である事は言うまでもありませんが、基本的な栽培のノウハウ・種の入手・水の確保・盗難防止対策・病害虫対策・雑草対策など、それは意外と簡単ではないものです。

 

しかし、夏ミカンなどの果樹を庭に植えておけば、年に一度の剪定だけで良いのです。つまり、それについては汗水たらして気を揉んで苦労しなくても、自然と仲良く付き合い感謝してその恵みを頂くだけで良いのです。もちろん、それだけで全てがすまなくても、より必要な事柄に労力をまわす余裕が出来る訳です。

 

また、剪定によって出るたくさんの枝は、日の光の下で乾燥させる事によって焚き木として利用する事が出来ます。さらに、そこから出る木の葉は養分となって土に返り、あるいは地表を乾燥から防ぐ役割も果たします。また、収穫時期に枯葉を地表に広げておけば、それを踏んだ時のバリバリと言う大きな音によって防犯対策にもなるでしょう。

 

全てはありがたく自然から受け取り、害のない形で自然のサイクルにお返しするだけなのです。

 

また、庭や窓の外の屋根の上に日当たりの良い場所があれば、アウトドア用のソーラーパネルとポータブル電源で最低限の電気を確保する事が出来ます。それを与えてくれるのも、太陽の日差しと言う自然の恵みなのです。

 

こうして見て行けば、雨水との付き合い方、雑草との付き合い方、風との付き合い方など、それらと調和する事によって受け取る恵みを、生活の中にコツコツと積み上げて行く事が出来るものなのです。

 

それがそのまま、3次元から4次元の現実へと移行して行く事でもあります。つまり、それもアセンション過程そのものの一部なのです。

 

私達は3次元的に自然からの恵みを強奪し、それをゴミに変えて自然の中にまき散らして来たのですが、そうした所から得て来たものの供給が止まった時どうするのでしょうか?

 

僅かに残ったものを奪い合うサバイバルモードに入るのか?自然との調和に目を向けて、その知識を分け合いながら自然の偉大さを思い出して行くのか?

 

これは、どちらが正しくどちらが間違っていると言う問題ではありません。単純に各自がどちらを選択するのかと言う、ただそれだけの問題なのです。それが、私達が魂としてこの明晰夢・仮想現実の中で手にしている自由意思と言うものです。

 

そして、誰もが自らの選択に相応する結果を受け取る事になります。その「学び」によって、魂は成長して行くのです。