最近になって、広く浅く社会に食糧危機に対する不安が広がって来ている様に感じられます。

 

世界的な傾向とも言えるのではないかと思いますが、特に日本の農業を支えているのはかなり高齢な人々であって、若い世代への継承が進んでいません。

 

また、多くの作業が機械化されているために、エネルギー危機がそのまま食糧危機へと直結する事にもなります。

 

 

さらに世界情勢の不安定化によって、食料自給率の低い日本などは、思わぬ形で輸入が途絶えるリスクもあります。例えば、小麦の輸入途絶は、その代替品としての米の不足へと連鎖して行きます。

 

そして、首都直下型地震・南海トラフ地震・富士山の噴火等が起これば、そこでも食料に関する問題が発生する事でしょう。

 

だからと言ってそれらのリスクに怯えて暮らす必要はないのですが、自分の置かれている状況を把握した上でリスクが現実化された時には、何とかそれを乗り越えて行けるような道も考えておく必要がありそうです。

 

しかし、ここで私達には「大きな勘違い」があるように思う事があります。

 

それは、こうして始まる食糧危機は「年単位で続く」可能性が高いと言う事です。

 

それに対して備蓄を進めると言うのは、補助的な備えとしては有効ですが、柱としての備えには見劣りするものです。

 

本格的に1部屋を備蓄部屋にしてと言うレベルであればともかく、家族の3日分や10日分などと言う備えにはあまり意味がありません。

 

それは、地域的な災害に対しては有効な備えとなりますが、食糧危機に対する備えかと思えば焼け石に水です。また、大量の備蓄は防犯上のリスクを引き寄せます。

 

そこで有効になるのは、やはり日常的な食生活に密着した備えになって来るのだと思います。それも、ただ備える為にと言うのではなく、昨日の記事にも書いたように、健康や地域性・経済性も兼ね備えた形での健全な食生活を普段から育てて行くのだと言う事です。

 

例えば、昨日は家庭で簡単に作れる保存食に付いて書きましたが、家庭菜園や果樹を植える事も良いでしょうし、山菜なども含めて食べられる野草に興味を持つ事も良いと思います。特に野草は、水やり・肥料・消毒などの心配も無く、日本の野草(雑草)には栄養価が豊富で美味しく食べられるものが多いのです。

 

そして、そこに表れて来る食生活こそが、もともとの日本の食生活であったのです。地産地消・自給自足型で、自然と調和した食生活です。それは、4次元世界のあり方として、これから広がって行く流れになる可能性があります。

 

では、今から消えゆく3次元的な食生活と言うのは、どの様なものなのでしょうか。

 

それは、自然から切り離された人工空間における都会的な食のスタイルになります。都会では基本的に食料が生産されていない為に、常に農産地から大量の食料を供給し続ける必要があります。

 

安定した時代であればそれはそれで成り立つのですが、先にも挙げた様に様々なリスクが押し寄せて来る時代の中で、一番先に行き詰ってしまうのがそうした都会的なあり方になるでしょう。

 

これは、良い悪いと言う事を書きたい訳ではありません。単純な状況把握における現実です。

 

アセンション的な視点から見れば、私達が進む道のりは、各自の波動に応じて既に確定しているものです。

 

大雑把にその流れを言えば、3次元的なあり方は崩壊と共に消えゆく事になり、その中から新しい4次元的な流れが残り育って行くことになります。

 

これは既に確定している事であり、確定していないのはそれがどの様に現実化・具体化されて行くのかと言う事です。

 

高次元存在達は、この数十年の時間の中で、再三に渡って自然と調和的に生きる事の大切さやワクワクと前向きに生きる事の大切さを説いて来ました。

 

食のあり方についても、その様に3次元的なものから4次元的なものへの移行が促されて来ました。

 

そして、食糧危機で何が起こるのかと言えば、行き詰まりを見せて来た3次元的な食のあり方が終わりを迎え、4次元的な食のあり方が生き残って行くのだと言う事です。

 

こんなにも、単純で分かりやすいストーリーの上を私達は進んでいるのです。

 

繰り返しておきますが、食糧危機への備えと言うのは、数日・数週間の備蓄を進めると言うレベルの話ではありません。私達各自の生き方が「食」を通じて問われる事になるのだと言う事です。

 

そして、それは「食」に限った事ではありません。お金や仕事や人間関係などあらゆる側面から問われる事になります。

 

それらの全てが完璧である必要はないのですが、出来る事なら3次元と4次元の境界線から、一歩だけでも4次元側の所まで自分のあり方・日常現実を創り変えて起きたいものです。