これまでの社会において、「豊かさ」の象徴はお金であったと言う事が出来ます。お金があれば、欲しい物を何でも買えるし、サービスを受けることも出来ます。それが、社会的な共通認識としての「豊かさ」であったのだと思います。

 

そうした中で人々はお金を求め、毎日、朝から晩まで仕事に拘束され、たまの休日に家族的あるいは地域的な義務をこなす傍らでお金を消費して息抜きをして来ました。

 

 

そこで、「あれっ?豊かさって何だっけ?!」と我に返った人々は、スピリチュアル的な日常へと舵を切り直し、そうでない人々はその本末転倒な現実の中で人生を生きています。

 

豊かになろうとする事で、豊かさから遠ざかり、そのまま社会の潮流に流され続けているのです。

 

しかし、本当の「豊かさ」と言うのは「お金」によって表されるものではなく、「心の状態」によって表されるものになります。最低限のお金さえあれば、「豊かさ」を経験する事は可能なのです。

 

それは、十分な食べ物であったり、ゆとりある時間であったり、趣味を楽しめる環境であったりと言うように、様々な側面からの取り組みによって生み出される「心の状態」こそが「豊かさ」の正体なのですから。

 

ところが私達は社会的に、「豊かさ」=「お金」と言う考えを短絡的あるいは仕方なく受け入れてしまっていました。それは、意図的に誘導されて来た価値観でもあるのですが、そこは問題ではありません。嫌なら受け入れなければ良いだけの事なのですから、それをせずに受け入れてしまった自分に問題があるのです。

 

特に、社会システムの崩壊を迎える今からの時間の中では、「自分に与えられた豊かさ」にどれだけ気付き、それを受け入れて人生をいかに前向きに構築して行く事が出来るのかが問われる事になります。

 

つまり、「お金」や「物」や「サービス」が圧倒的に不足して行く中で、残された物や幅広い意味で自分に与えられている豊かさに気付き、いかに大難を小難に抑えて行く事が出来るかが大切になって来るのです。

 

例えば、そうした危機的な状況の中では、自然の恵みほど大きな豊かさを与えてくれるものはありません。それを如何に自分の生活の中に取り込むのかについては一工夫いる所ですが、そこが生きる楽しみでもあるのです。しかし、そうした豊かさに対して「何もない」と言う考えで進むのであれば、実際に何もなく生活に困窮して行く事になるでしょう。

 

今ある物に感謝をし、自然と調和した生き方を実践するようになって行けば、その時、私達は本当の意味での「豊かさ」を知る事になるのかと思っています。