現代日本における大半の人々は、唯物主義的な世界観の中に生きています。漠然とは魂や死後の世界が存在するかも知れないと言う思いを持ちながらも、基本的には自己存在としての命のよりどころは肉体にあると考えているのです。そして、肉体が死んでしまえば自分もそれまで(あるいはその後の事は知らない)と言う意識・無意識的な前提の下で日常を送っています。

 

唯物主義の人にとっては、この物質世界が全てな訳ですから、肉体的な寿命におけるほんの数十年が自己存在の全てとなるのです。その時、地に足を着けてスピリチュアル的な精神性を高めながら、世界との調和を深く広く探求しながら生きる事には大きなリスクが伴います。

 

つまり、その様な地道な生き方によって、自らが消滅するまでのこの短い時間の中で「一体どれだけの経験を味わう事が出来るのか」と言う事です。

 

それよりもどんどんと積極的に、欲求の赴くまま快楽的に生きて行った方が良いのではないかと言う思いになる事は自然であり、それは好ましくは無いどころか、有効な方向性であると言う事も出来るでしょう。死によって自らが消滅するのであれば。

 

では、社会システムが崩壊し、世界が混乱に陥る中ではどうでしょうか?

 

唯物主義的な世界観の中に生きている人達にとっては、それは、自己消滅へのカウントダウンが加速し始め、そもそもそんな不安や恐れに囚われて行く現実の中で自己存在に対する意味を見出す事が出来ません。

 

しかし、死後の世界までをも含むエネルギー的・スピリチュアル的な世界観の中に生きている人達にとっては、この物質的な今の人生は、永遠に存在する魂における貴重な経験の1つに過ぎません。それはとても大切な時間ではありますが、魂としての永遠性から見ればあくまでも一時の経験なのです。

 

社会の混乱と言う経験さえもが、魂を成長させて今ある人生をも超え、より良い経験を生み出して行くための貴重な学習機会なのです。従って、根本的には不安や恐怖に陥る必要は無く、そうした混乱の中にどの様にしてポジティブで調和的な経験を生み出す事が出来るのかに意識を集中して行けば良い事になります。

 

これはほんの一例に過ぎませんが、スピリチュアルな世界観と唯物的な世界観とでは、根本的な所で比較にならないほどに大きな違いが存在しているのです。

 

そして、今から数年に渡って大混乱に陥るであろう時間の中では、唯物的な世界観の元でパニックに陥った人たちが、藁をもつかむ思いでスピリチュアル的な世界観へと向かってくることになります。

 

 

もちろん、全ての人がと言う意味ではありませんが、ある程度の規模を持った社会現象としてそうした潮流が表れて来ると思うのです。

 

なぜなら、スピリチュアルな世界観を確立している人ほど、混乱する社会の中にあっても地に足を着けてポジティブで調和的なあり方を淡々と続けて行く事が出来るからです。

 

それは混乱する大海原にあって、安心と安定を保つことの出来る場所を示す灯台の明かりとなります。そして、そこを起点にその先の新しい世界が広がって行く事になるのです。各自の個性によって大小様々な差はあれど、スピリチュアルに関心を持って学んで来た人達が、それぞれの地域でそうした灯台の明かりとなって行くのだと言う事です。