年を取ると良い事は、世界が広がって行くと言う事です。ただ、そのためには、この世界を楽しみながら生きる事の積み重ねが必要になって来ます。あの頃にはこんな事に興味を持って、その知識と経験の積み重ねを楽しんでいた。その次にはあんな事に興味が移って、そこでまた新たな知識と経験を積み重ねて来た。

 

そうして、この世界で生きる時間を尊ぶ事によって、年を取る程に世界が広がって来る事になります。つまり、そうではないあり方と比較して「世界を見る視点」が広く深くなり、同じである世界がますます興味深いものへと深化していくのです。

 

例えば、コロナワクチンの話が出て来た時に、「mRNAと言う文字」を見て血の気が引いた人達も多かった事だろうと思います。

 

それは、「生命の神秘」に興味を持ってその知識を楽しんで来た人達にとっては、医学的な知識など無くても、「極めて危険で軽率な暴挙」に人類が動き始めている事を感じ取るのに十分な情報であったと思います。

 

そして、「隠されて来た歴史」や「社会の歪み」に疑問を感じ、そのツルの根源を探って来た人達にとっては、コロナ騒動が始まった直後からの「マスコミでの扱われ方」によって、世界が巨大な陰謀によって暴走し始めた事を感じ取った事と思います。

 

また、「金融・経済」に興味を持ってその知識と状況変化に関心を寄せて来た人達にとっては、今まさに世界の金融・経済が崩壊前夜にあると理解するのは決して難しい事ではありません。

 

そうした人々は、社会的に「陰謀論者」「反ワク」「プレッパー」「変わり者」等として冷ややかな目で見られる事が多かったのかも知れませんが、魂がこの世界を経験する目的は、そうした他人の評価とはまるで関係がない所にあります。

 

あるいは、自然の豊かな田舎で、地域のコミュニティや大自然と調和する事を楽しんで来た人達は、世界の金融・経済が崩壊したからと言って、無傷とは言いませんが致命的な影響を受ける事はないでしょう。

 

そうした生き方もまた、やはり社会(マスコミが生み出す流行)的には「田舎者」として軽く笑われそうな時代が続いて来ました。しかし、それもまた魂の視点から見ればどうでも良い事なのです。

 

こうした例に限らず、私達はこれまでの数十年に及ぶ人生の中で、その時間をどう過ごして来たのかを問われる時間の真っただ中にあるのだと言う事が出来ます。バシャールが言う「針の穴を通過中」であると言う事です。

 

 

ワクワクと調和的に生きる事が大切だと言われていますが、それは人生を通じたその様な方向性の積み重ねによって、はじめてそれが、かつてない巨大な現実化の波を引き寄せて来るのだと言う事です。つまり、そのアセンションするタイムラインに乗り移ると言う事は、今回の人生の総決算としてのイベントになるのです。

 

既に今ある現実の中では、ワクチンを打っている人も多い事ですし、自分のワクワクが何に繋がるのか分からない人も多いのかも知れません。ここで1つの補足をしておけば、ワクチンを打ったか打っていないかと、アセンション出来るか出来ないかと言う事は、必ずしもピタリと一致するものではありません。

 

あるいは、社会的・集団的なアセンションが達成される前に何らかの理由で亡くなったとしても、次の人生でアセンション後の世界に生まれて来る事でアセンションを達成する人たちもいるのです。人の寿命には限りがあり、アセンションを達成する全ての人が、社会的なアセンションが達成されるまで生きていると言う事は不自然なのです。

 

そうした前提の下で、この先に自分がどんな立場・状況に置かれようとも極めて重要になって来る事は、「何があっても」ポジティブな視点を失わないと言う事です。

 

そして、そのために役に立ってくるのが、これまでに自分の中に「わくわく」と積み上げて来た知識や経験になります。「針の穴」の出口には社会的な大混乱がまっているものと思われますが、その大混乱をみんなのワクワクによって小さく抑え乗り越えて行く事が、今からの社会的な挑戦として始まるのです。

 

家族・友人が落ち込む中で、あなたのピアノが安らぎを与えてくれるかも知れません。得意なイラストで、近所の子供たちを喜ばせる事が出来るかも知れません。マラソンで鍛えた足が、情報伝達の役に立つかも知れません。毎度の飲み会幹事の経験が、みんなの意見集約の場で役に立つかも知れません。家庭菜園や裁縫などの知識・技術を、みんなに求められる状況が訪れるかも知れません。

 

これまでの時間の中で収穫したみんなのワクワクを、社会・コミュニティの中で調和的に繋ぎ合わせる事によって、私達は魂の学びの集大成として、アセンションのタイムライン立ち上げに挑んで行く事になるのです。