リーマンショック(2008年)の際に崩壊した金融システムは、日米欧の中央銀行による異次元の金融緩和により無理矢理に延命され、更に桁違いに大きな問題へと成長して来ました。そのリーマンショックによって失速した世界経済を支えたのが中国の巨大な経済対策であったのですが、それによって人類史上最大の不動産バブルが発生し、2020年からの度重なる都市封鎖などによってその巨大バブルが崩壊し始めています。

 

その中国での金融・経済崩壊は、2017年に発足したアメリカのトランプ政権にも大きな影響を受けており、世界の工場と言われて成長を続けて来た中国の貿易輸出は、今や惨憺たる状態に陥っています。つまり、金融・経済の崩壊から始まる社会システム全体の崩壊は、既に中国で本格化しているのです。

 

 

そうした中国と経済的に深い関係で繋がっていた欧州も、金融・経済の崩壊に直面しています。欧州で中国経済と最も強く繋がっていたのが、欧州経済の要であるドイツです。そのドイツ経済の力の源は、ロシアから安価に輸入された天然ガス等のエネルギー資源にありました。しかし、恐らくアメリカなどによると思われるノルドストリーム(天然ガスパイプライン)の爆破とウクライナでの戦争の影響によって、その力の源が失われ、エネルギー資源の確保が致命的な弱みへと変わってしまったのです。

 

そうした経済の失速は金融不安へと繋がる訳で、世界の主要な金融国家としてその地位を維持して来たスイスの、巨大金融機関であるクレディ・スイスが事実上の破綻状態で同じくスイスの巨大金融機関であるUBSに買収されました(2023年3月)。言うまでも無く、これも単なる問題の先送りに過ぎません。誰もが世界経済・金融大崩壊の引き金を、自分が引きたくはないのです。

 

更に欧州は、何年にも渡るアフリカ・中東からの大量の移民問題にも悩まされており、治安の悪化、あるいは国や地域を乗っ取られてしまいそうな危うささえ抱えています。

 

更にアメリカでは、ロシア・BRICSの台頭によって基軸通貨ドルの覇権が急速に傾き始める中で、国家財政が深刻な危機を迎えています。膨大な借金として世界にばら撒かれて来たアメリカの国債を、世界の国々が売り始めているのです。そのため国債価格が急落し、今年(2023年)の春からそれを保有する金融機関の倒産が繰り返され、深刻な金融危機が露呈し始めています。

 

つまり、今や「世界の金融・経済が崩壊するかどうか?」を議論する事はバカバカしい話なのです。今やそんな事は議論されるまでも無く当たり前に起こる事であり、議論をするのであれば「いつ?どの様な形で?」と言う事になります。

 

そうした世界的な社会崩壊の入口で、さて、世間の人々はどの様にその現実の中へと飲み込まれて行くのでしょうか?これについて、世界情勢ではなく、人々のあり方・備え方についての3つのタイプを見て行きたいと思います。

 

1つ目は、そうした現状を理解し「それに備える人達」です。こうしたグループは、習慣的に物事を自分で考える傾向を持っており、マスコミによる情報操作に流されず世間から「陰謀論者」「プレッパー(備える人)」等として見られる傾向がある様に思います。このグループは圧倒的な少数派でありながら、少しずつ増える傾向の中にあります。

 

2つ目は、そうした現状に関心を持ちながら「情報を集める人達」です。このグループの特徴は、ただ情報を集めるだけであって、それを行動には移さない事にあります。つまり、他人が言う事をたくさん集める事に徹しており、「自分で考える事」が習慣化されきっていないのです。そのため、あれもこれもある程度は知っているけれど、どの情報をどの様な位置づけによって解釈するべきかについての確固たる世界観が自分の中に確立されておらず、それが行動の中に反映されないのです。

 

3つ目は、常にみんなと一緒である事を心がけ、自分ではあまり考えない人達です。テレビや新聞の情報を信じ、流行に乗ってみんなと同じ流れの中に居る事で安心を得ようとするタイプになります。皆がワクチンを打てば自分も打ち、それが何であるかを自分で考えたりはしません。判断基準はそこではなく、テレビが打てと言いみんながそれを打っていると言う所にあるのです。

 

これら3つのタイプについて、どれが良いのか悪いのかと議論する事には意味がありません。なぜなら、各自が自分が良いと考える現実を選択している訳であり、圧倒的に多くの人達は3つ目のタイプの中にいるのです。それは、良いか悪いかではなく、現状把握として単純に現実がそうであると言う事です。

 

そしてこの先、それらの人達が崩れ行く社会の中で何を経験するのかについても、「良い悪いと言う価値判断」について議論する事には意味がありません。ただ、単純にそうした選択がどの様な結果に繋がるかを理解する事で、それを自らの選択に活かし、同じ価値観を共有する人たちと情報を共有して行く事に意味があるのです。

 

先に挙げた1つ目のタイプの人達は、目的が「生存競争を生き残る事」にあるのか「調和的な人達と助け合う事で困難を乗り越えて行く事」にあるのかによって、その先の経験も大きく異なって来る事になります。ただ、程度の差こそあれ、ある程度の備えがあると言う事は、短期(数日)~中期的(数ヶ月)においては大難を小難方向へと抑えられる傾向があると思います。

 

2つ目のタイプは、知っていたからこその後悔と不安に飲み込まれる可能性があります。「知っていたのに!(備えが出来ていない!)」と言う後悔、どれほど深刻な事態に飲み込まれたのかについての「知っているからこその不安」など。つまり、集めた知識がネガティブな方向に機能する可能性もあると言う事です。

 

3つ目のタイプは、訳が分からないままに混乱の中に飲み込まれてしまった不安と恐怖。このタイプの人達は、明るい未来に繋がるタイムラインが見えていないために、世界が終わりに向かって行くかのような漠然とした大きな不安の中で、ただただ、取り残されない様にみんなと同じ流れにしがみ付き、その中でますます激しくなる生存競争に囚われて行く可能性があります。

 

結局、そうした3つの集団が混在する社会にあっては、1つ目のタイプの中における「調和的なあり方に活路を見出すタイプ」の人達がどう動くかによって、より小規模な地域コミュニティのあり方が大きく変わって来る事になります。国が機能しなくなる訳ですから、小さなコミュニティのあり方ほど重要になるのです。

 

そこで最大の課題となるのは、「いかに効率的に調和を広げられるか」と言う事。備えには「知識・情報・知性」としてソフトと、「食料・消耗品・備品」等としてのハードがあります。

 

「知識・情報・知性」については、それを積極的に広げて行く必要があります。なぜなら、それは使いようによって誰にでも有効に機能させる事が出来、決して自分の手元から尽きる事がないからです。

 

ただ、自分と考え方・世界観が大きく異なる人には、その有益にしか見えないものでさえも拒まれる事があります。そうした人には、無理に押し付けるべきではありません。それよりも、知識等を積極的に求めている人達との繋がりに意識を向けて行く方が、遥かに効率的であると言う事が出来ます。拒む人たちには、後になって寄って来た時に優しく教えてあげれば良いのです。はじめに無理に押し付けて関係をこじらせてしまうと、後になってその修復が難しくなってしまいます。

 

食料や消耗品の備蓄については、あくまでも「各自の自立的なあり方」を主体とした上での助け合いになるかと思います。個人レベルでの備蓄を困っている人に配り始めれば、あっと言う間に尽きてしまいます。それが、依存的な人に対してであればなおさらです。そのため他者への援助についても、「調和的な繋がりを広げる」と言う視点から慎重に活用した方が良いと思います。

 

それは、助ける人と助けない人を選別すると言うものではなく、その相手に応じた援助・アドバイスを使い分ける事で、総合的により大きな調和を形成して行く必要があるのだと言う事です。

 

今から始まる混乱は、私達の人生において最大の(歴史的にも最大級の)困難となるでしょうが、例えばゲームについて考えてみて下さい。一番魅力的なゲームと言うのは、一生懸命に夢中になって頑張った上で、何とかギリギリでクリアする事の出来るゲームです。簡単すぎても面白くないし、難しすぎてクリア出来なくてもやはり面白くありません。

 

そうした意味から、魂にとって壮大で臨場感の溢れる最も夢中になれるゲームが、今の私達が取り組んでいる人生ゲームなのです。このゲーム(人生)を終えた後でそれを後悔するのではなく、その中にいる今こそ、それを全力で前向きに生き抜いてみる事が大切なのかも知れませんね。