チクワです(・∀・)



めでたく退院日が決まったので記事にしますが、

実は先週、父が倒れたんです。




私の故郷は「島」です。


島内で治療が出来ない場合は、

ヘリで都内の病院に搬送されるんですが、

父も、夕焼けの眩しい時刻にビル群の合間をぬうようにしてヘリで飛んできました。




平日の昼間、仕事をしていたら兄から着電があり、

そんな時間の電話なので身内に何かあった事は察知しましたが、父が仕事中に倒れたという事でした。



私の父は、漁師です。


その日は素潜りで仕事をしていたようで、

その最中に体調がおかしくなりました。


病名は、「潜水病」でした。


漁師やダイバーがかかる病で、

環境圧が急激に低下した時になるようです。




父がこの病気にかかるのは、これが二度目。


父は若い頃から漁師をやっていて、

島の中では三本の指に入る腕利きの漁師なんです。


女にはだらしない人だけど、

仕事の面では自慢の父なんです。


50年以上漁師をやっていて、

69歳の今も現役で仕事をしている事もすごいなぁと思うんですが、



過信か、油断か、



こういうことが起きてしまうんですね。




その日はたまたま伯父と一緒に潜っていたので、

伯父が対応してくれて大事に至らなかったようです。




ヘリには、島で暮らす私の兄が同乗するということで、私も仕事を早退させてもらって病院へ走りました。


そうして、家族用の待合室で待っていると、


バラバラバラバラ


と大きな音を轟かせてヘリが病院の屋上に到着。




ちなみに、


島からヘリ搬送される先の病院は広尾の病院がほとんどなんですが、


今回父が運ばれたのはそこではなく、

もっと大きな大学病院でした。

とても珍しいことです。

なので、よほど悪いんだなと覚悟もしました。


そしてその大学病院は、何の因果か、

私がモヤモヤ病と乳癌の手術でお世話になった大学病院でした。





しばらく待っているとまず兄が、

その後、

ストレッチャーに横たわった父が運ばれてきました。



救急隊員に

「娘です」

と声をかけるとストレッチャーを止めてくれたので父の顔を覗き込んでみたら、

「お、来たのかチクワ」

と、弱々しい声の父。



「お父さんはもうあちこちボロボロだ。ダメだ」

とぬかすので、

「だーいじょーぶだよ。ここで待ってるからね」

と言ってERの入り口で見送りました。





その後、兄と待つこと6時間。


病院からなんの説明もないままやきもきして待っていましたが、車椅子に乗った父がようやくERから出てきました。


おそらく減圧機で治療していたんでしょうね。


減圧気が広尾の病院に無かったからこの大学病院に運ばれたのでは、と思います。



「腹が減り過ぎて気持ち悪い」

と言うので、

まぁこれなら大丈夫だなと一安心しました。




今回私がこの話を書いた理由は、

ここから先にあります。




この日、兄と待っている間に、

「分かる範囲でいいので記入して下さい」

と言って看護師さんから問診票の様なものを渡されました。


いつも飲んでいる薬はあるか。


食事は一日何回とるか。


お酒はどれくらい飲むか。


とにかく事細かに質問事項が書かれていましたが、

私も兄も、分かる項目がほとんどありませんでした。



なんなら私は、

父が島のこの辺に住んでる、とは分かっていたものの、詳しい住所までは知らなかった。



私の両親は私が幼い頃に離婚をしていて、

私と兄は母に引き取られて育ててもらいました。


それでも父とは帰省すれば必ず会うし、

本当にたまにですが、父が東京に来れば2人で呑んだりもしてきましたが、


分かっているつもりでいただけで、

私は父の事を何も知りませんでした。




とても情けなかったし、

こんなのは娘じゃない、と思いました。




本来比べるものではないけれど、


苦労して女手一つで育ててくれたのは母で、

一番大切なのはもちろん母なんですが、


どんなにしょーがない人でも、

私にとって父親はこの世に彼、ただ一人。


同じ血の流れる数少ない人なんですよね。



今回の件は、

色々と考える良いきっかけとなりました。



「お前は本当にお父さんそっくりでしょーがない女だ」


父の口癖。





時々煩わしいのが家族。


でも、何にも変え難いのが家族。


大切にしなきゃいけないと、

改めて心から思った、そんな10日間でしたニコニコ