ブッダの説いた教えと、僕たちが思っている仏教はかなり違うという内容。ヒンズー教からキリスト教のイメージが入っていたり、日本に伝わってくるまでに様々な要素が加わってブッダの教えと違っているということを紹介している。日本での仏教の教えも、日本人向けに変化したということで悪くはないと思うけど、ブッダが言っていたこととは違うということも知っておいて損はないだろう。ほんとは宮崎哲弥推薦の『誤解された仏教』を読もうと思ったのだが、さすが講談社学術文庫ということで仏教に無知な僕には理解できず、分かりやすそうなこの本を読むことにした。
仏教は原則的には霊についてほとんど関心をもっていないはずなのだが、怨霊が日常で当たり前である日本においてはそうもいかなくなる。
ふつうは、実体があるからこそ、そこに物や人が存在していると考える。しかし仏教では、その存在はたんに現象にすぎないのだと見る。
だから、「空」とは、決して存在の「無」を意味する言葉ではなく、実体の「無」を意味すると同時に、現象の「有」を意味している言葉、となる。
では、そこに実体がないのに、どうして現象が生じているかのか。
現象が相互に限定したり依存したりすることによってである。
現象のこの相互依存は、「縁起」と呼ばれる関係である。「縁起」によって、現実世界がここに生じているというわけだ。
「救い」というと、奇跡のようなことが起きたり、病気が治ったりするようなことを想像する。しかし、何かがガラリと変わる前に、自分の心の向きが変わるのがふつうである。
自分の心が変わることによって体も変わり、周囲も変わる。総じて、その変化が具体的な救いとなるわけなのである。
ブッダの悟りに関する言説と縁の思想を真だと信じるのが仏教なのだから、本当の仏教者ならば、極楽浄土や地獄が死後に存在すると考えるべきではないだろう。
では、「浄土」「彼岸」「仏国土」とはいったいなんなのか。
それは仏の世界のことだ。仏の世界とは「縁」という関係性で世界を見ることによって「空」を知り、ついに煩悩から離れた状態のことである。
すなわち、「浄土」も「彼岸」も「仏国土」も、完全に仏教思想で世界を見るようになった心の平穏な有り様の比喩だということなのだ。
比喩に用いられた概念をあたかも事実のように考える、それこそ仏教者がもっとも嫌って捨てるべき「妄想」であろう。
大事そうな所だけ抜き出したので意味が伝わりにくい部分もあるが、本文ではとても丁寧に説明しているのでかなり分かりやすい内容になっている。仏教ではなく仏陀の教えを理解したい人におすすめ。もっと深く知りたい人は『誤解された仏教』を。

