『本を読む本』M・J・アドラー/講談社学術文庫 | 砂場

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本の感想と日記。些細なことを忘れないように記す。

モーティマー・J. アドラー, C.V. ドーレン, Mortimer J. Adler, Charles Van Doren, 外山 滋比古, 槇 未知子
本を読む本


今まで読んだ読書論の本のなかでも最も理論的で完成度の高い内容。教養書と小説の読み方を明確に分け、教養書では「点検読書」「分析読書」など段階を踏んだ読書方法を提示するなど、これぞ読書論といった本だ。この本を読めば、そのあたりの読書論と銘打った本のほとんどが、たんなる「本の読み方のコツ」の羅列としか思えなくなる。読書論の教科書を選ぶとしたら本書がよさそうだ。

教養書の場合は、真実を求めてどこまで理詰めに読み、小説は楽しむことが基本なので物語の世界に没頭して読む。教養書に求めるものは学問・思想としての「真」であり、小説に求めるものは芸術・娯楽としての「美」である。これを混同して小説を学問的価値や思想的な良し悪しで語るから、本来は楽しむべきものの小説が難しいものと敬遠されていくのだろう。某選考委員の方々は本書の第三部「文学の読みかた」をぜひ読んでいただきたいと思う。

以下、気になった文章の抜粋

・読書技術と積極性

自分の理解を越えた本を読むときこそ、読み手はいっさい外からの助けに頼らず、書かれた文字だけを手がかりに、その本に取り組まねばならない。読み手が積極的に本にはたらきかけて「浅い理解からより深い理解へ」と、読み手自身を引き上げていくのである。

著者が述べていたことを思い出せれば、何かを学んだことになる。だが、記憶するだけに終わったのでは、それは単に知識を得たにすぎない。著者の述べていることだけでなく、その意図や理由を理解してはじめて、何かを教えられたことになる。

読書技術には、「手助けなしの発見」のために必要な技術が、すべて含まれているのである。鋭い観察力、たしかな記憶力、豊かな想像力、そして分析や思考によって鍛えられた知性、これらがすべて要求される。

学校をでてから教養を身につけようとすれば、たよるものは教師のいない読書だけである。たからこそ、一生のあいだずっと学びつづけ、「発見」しつづけるには、いかにして読書を最良の師としるか、それを心得ることが大切なのである。

・点検読書

難解な本にはじめて取り組むときは、とにかく読み通すことだけを心がける。すぐには理解できない場所があっても、考えこんだり語句調べに手間取ったりしていないで先へ進むのである。

・意欲的な読者になるには

読書は著者との対話でなければならない。

・著者と折り合いをつける

使われる単語の意味があいまいだと、話し手と聞き手、あるいは書き手と読み手が共有するのはただの単語にすぎず、意味を共有しているとは言えない。完全なコミュニケーションを成立させるには、両者が同じ単語を「同じ意味で」使わねばならない。書き手が単語によってあらわしている意味を読み手が正しく了解してはじめて、書き手と読み手は一つの思想を共有する。二つの精神が思想を通して出会うという奇跡が起こる。

・著者の伝えたいことは何か

「自分の言葉で言いかえてみる」、文中の命題が理解できたかどうかを判断するには、これが一番良い方法である。(中略)著者の言葉から離れることができなければ、読者に伝播されたのは「ただの言葉」にすぎず、「思想や知識」までは伝わってはいない。それでは著者の精神をつかんだことにはならない。

一般的心理を具体的な経験に即して、あるいは、あり得る場合を想定して、例証することができるだろうか。体験や想像によって命題を例証することができなければ、著者の述べていることは理解できていないと考えなくてはならない。

重要なことは、命題は真空の中に存在しているのではなく、われわれが現実に生きている世界について述べたものだということである。命題に何らかの関連のある現実、あるいは、あり得る事実を示すことができなければ、読書によって「思想や知識」にかかわることはできない。それでは、「言葉の遊び」に終わるだけである。

・本を正しく批評する

批評の務めを果たして、つまり判断を下してはじめて、積極的読書は完了する

批評の第一規則は、「まず<この本がわかった>と、ある程度、確実にいえること。そのうえで、<賛成>、<反対>、<判断保留>の態度を明らかにすること」である。

書斎で、ひとり本と対話をかわすとき、読者が自分の勝ちだと思いたければ、それはいともたやすいことだ。邪魔するものは何一つない。著者は、自分を弁護できる立場にはいない。著者をやっつけるだけで満足なら、最初の数ページをパラパラ繰ってみるだけで十分である。

「反論するだけでなく、賛成するにも、それなりの準備が必要だ」と言いたいのである。どちらの立場をとるにせよ、読者が考慮すべきことは、ただ一つしかない。書かれていることが、事実であり、真実であるかどうかということだけである。

人間は他人と意見を異にする場合でも、他人の意見をいれることができる。それは人間性の複雑さからきている。

人間は感情と偏見の動物である。言葉というものは、他人とのコミュニケーションをはかるために使うべきものだが、不完全な伝達手段である。言葉は、思考の手段として十分に明晰とは言えないだけでなく、感情にくもらされ、利害によってゆがめられるものである。

誤解と無知を取り除けば、大部分の反論は解消する。この二つを取り除くことは、困難ではあるが、できないことではない。
反論することは、相手に何かを教えることだとすれば、それはまた、教えられることでもあることを忘れてはならない。
だが、困ったことに、反論は、教えることにも、教えられることにもかかわりのないことだ、と考えている人が多い。すべては見解の相違ときめこんでいる。意見というものは私有財産と同じで、侵すべからざるものと心得ている。だが、それでは知識を深めるはずのコミュニケーションは、まったく実りのないものになる。(中略)
はじめに持っていた意見を最後まで捨てずに試合終了となるからみんな満足、というわけだ。

いかなる判断にも、必ずその根拠を示し、知識と単なる個人的な意見の区別を明らかにすること

・小説、戯曲、詩の読みかた

文学はまず第一に楽しませるものであって、読者に教えるものではない。教えられるよりも楽しむ方が、はるかにやさしい。ところがなぜ楽しいかを知ることは非常にむずかしい。美は真よりも分析しにくいのだ。

積極的に読書することはどんな場合にも大切だが、「教養書」と文学書ではその姿勢に違いが出てくる。(中略)
物語を読むときは、物語が心にはたらきかけるにまかせ、またそれに応じて心が動かされるままにしておかなくてはいけない。つまり、無防備で作品に対するのである。

作家は、言語にひそむあいまいさを最大限に活用する。そうすれば、意味の多様性がもたらす独特の豊かさと力強さと、十分に得ることができるからだ。(中略)
作品としてまとまった詩や小説は、一つ一つの言葉以上の何かを伝えるのである。

科学や哲学は、新しい経験をさせてはくれない。すでに経験ずみのこと、これから経験できること、について解説してくれる。これに対し文学は、経験を創造し、そこから読者は学ぶのである。

良い小説の「真実」は迫真性であり、そこに含まれる、いかにもありそうな本当らしさである。調査や実験によって証明できるような、人生や社会の事実を描く必要はない。(中略)
小説の場合は、作家が創造し、読者の内部に再創造された世界、架空の人物や事件の世界で起こり得たかもしれない、という意味で真実の物語であればよいのである。

作家が読者に経験させようとしたものを十分に感得できるまでは批判をしてはならない。作家の創造した世界に疑問を抱かないのが良い読者である。(中略)
つまり、小説に対して、読者は、反対したり賛成したりするのでなく、好きであるかきらいであるかのどちらかだということを、忘れてはならない。「教養書」を批判する場合の基準は「真」だが、文学の場合は「美」であると考えてよいだろう。

可能性として行動を導くことはあっても、必要な条件ではない。文学は芸術作品である。芸術の目的は、それ自身以外にはない。

速く読むこと、そして作品に没入して読みふけること。没入するとは文学に身も心もゆだね、作品がはたらきかけるままにまかせることである。自分が作中人物になりきって、どんな出来事も素直に受け入れてしまうのだ。ある人物の行動が肯定できなくても、自分の世界を離れて、その人の世界の人物に住もうと努力すれば、やがて、理解できるようになる。判断を下すのは、自分がその世界の人物になりきったときでよい。

速く読まないと、物語の統一性が見失われやすい。集中して読まないと、細部が目に入らない。

本当に詩を理解するのは、繰り返し、繰り返し読まねばならない。一篇の詩を味わうのは、一生の仕事である。

すぐれた詩は、汲めども尽きぬ泉のようなもので、何度読み返しても味わい尽くせるものではない。その詩を離れているあいだにも、読んだことによって、知らず知らずのうちに、多くのことを、われわれは学んでいるのである。

・読書の最終目標

もっとすぐれた本の場合は、再会したとき、本もまた読者とともに成長したようにみえるものだ。読者は前に気づかなかった、まったく新しい事実を数多く発見する。これは最初の読みかたが悪かったのではなく、最初に見すごしていた別の真実が見えてきたのである。