『読書からはじまる』長田弘/NHK出版 | 砂場

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本の感想と日記。些細なことを忘れないように記す。

長田 弘
読書からはじまる

読書というのは書を読むこと、本を読むことです。読書に必要なのは、けれども本当は本ではありません。読書のために必要なのが何かと言えば、それは椅子です。

色々と読書論の本を読んできたが、これで一区切り。一冊だけ読書論の本を選ぶとしたら、この本だ。読書論というと教養書に関するものが多いが、本書は本全般に関して。本を選り分けたりするのではなく、本を読むという行為自体が素晴らしいと説く。活字離れが起きているのは、人と本との関係が揺らいできているからだという指摘など。読書論の本なのに、ちょっと感動した。今まで本はあまり読まなかったけど、読書の習慣をつけたい。もしくは、読書はしているが、何か物足りないという人は、まず読書のための椅子を探しましょう。読む本を選ぶよりも椅子選びのほうが大切。まずは椅子から。

以下、気になった文章を抜粋。今回は多いです。

・はじめに

「読む本」「読むべき本」が、本のぜんぶなのではありません。本の大事なありようのもう一つは、じつは「読まない本」の大切さです。
(中略)
「本の文化」を深くしてきたものは、読まない本をどれだけもっているかということです。

その本をそれまで読んだことがない。にもかかわらず、その本を読んで、「私」という人間がすでにそこに読みぬかれていたというふうに感じる。のぞむべき本のあり方はそうであり、そのようなしかたで、いつの時代にあっても人びとにとってのもっとも大事なことが、きまって本というかたちをとって表され、伝えられてきたというのは、宗教も、法律も、文学も、それが基本で、すなわち基は本だからです。

いい本というのは、そのなかに「いい時間」があるような本です。読書という営みがわたしたちのあいだにのこしてきたもの、のこしているものは、本ののっているその「いい時間」の感触です。

・本はもう一人の友人

今日、揺らいでいるのは、本のあり方なのではありません。揺らいでいるのは、本というものに対するわたしたちの考え方であり、「本という考え方」が揺らぐとき、揺らぐのは、人と人を結び、時代と時代を結ぶものとしての、言葉のちからです。

友人というものは、わたしたちをふりかえらせてくれるものです。わたしたちは、ふりかえるときにいろいろなことを思い、あるいは感じます。友人というもののちからが、わたしたちをふりかえらせる。人生があっという間に過ぎて終わってしまった、ということにならないために、わたしたちはそういうものを必要としています。

書かれていないものを想像するちから、表されているものではないものを考えるちからを伝えることができるという本のちからに思いをこらすことなく、本を表現の道具やメディアの媒体にすぎないとしてしまうと、長い歴史をかけて、本がわたしたちのあいだに生みだし、もたらしてきているものが何か、見えなくなってしまいます。あるいは、そうした見えないものへの想像力に対して、およそ傲慢な人間になってしまいます。

ここからもう一つの時間がある。ここをくぐってゆくと、そのむこうにもう一つの時間がある。今は忘れていて、しかも忘れていることさえ気づいてもいない。けれども、そこにずっとある。そこに大事なものがあると語りかけてくる。
(中略)
もう一つの時間へ入口を気づかせるということが、そもそも本のいちばん大事な仕事だからです。こちら側だけの考えでは計れないものが、そこにあるということを思いおこさせるのが、本のひめているちからです。

本のつくってきた文化は、活字によってつくられたのではありません。言葉が育んできたのが本の文化であり、言葉というのはそもそも初めから、人びとの日常のなかに深く根を張って育ちます。
本の文化は、日常にないものをつくってきた文化ではないのです。本の文化というものがこれほど長い生命力をもち、本というメディアがこれほど長い間わたしたちのなかに必要なものとされて生きてきたのは、そういうどこにでもあるものを自分が読むことによって、あるいは書くことによって、特別なものにしてゆく方法としてのメディアだったためです。

本の文化を成り立たせてきたのは、じつは、この忘れるちからです。忘れられない本というものはありません。読んだら忘れてしまえるというのが、本のもっているもっとも優れたちからです。(中略)
ですから、再読することができる、本は読んでも忘れることができる、忘れたらもう一回読めばいいという文化なのです。(中略)
読んで忘れた本に再読のチャンスを自分で与えることで、読書という経験を、自分のなかで、絶えず新しい経験にしてゆくことができる。

生まれたところから離れて暮らして、そのあと過ごしたところの方がずっと長くなっても、生まれたところに対して、ずっと故郷という愛着をもちつづけるように、親しんだ本を再読するときには、そこに帰郷したような感覚をもちます。たとえまったく覚えていなくても、しかしこれは自分が呼吸した空気である、言葉であるということを、よみがえらせてくれる本があります。そういう本の記憶をどれだけ自分のなかにもっているかいないかで、自分の時間のゆたかさはまるで変わってきます。

今ある時代にむきあえるもう一つの言葉をもつことができなければ、そのもう一つの言葉の側から今という時間を新しく読みなおしてゆくということはむずかしいし、そのためにたずねられなければならないのは、もう一つの言葉をもつ、自分にとっての友人としての本という、本のあり方です。どの本がよい、というのではなく、本が自分の友人としてそこにあるというあり方を、自分たちの時間のなかに不断につくってゆく方法を育んでゆくということが、今、わたしたちにはとても大事ではないでしょうか。

・読書のための椅子

本を読むときに必要なものとしていちばん最初に求められるのは、どういう本を読むかだと、普通は考えられています。しかし、実際は違います。本を読むときに自分で自分にいちばん最初にたずねることは、その本をいつ、どこで読むか、本を読む場所と時間です。それが、その本をどんな椅子で読むか、ということです。

読書について、「どういう本を読んだらいいのか」という質問は、じつに不要な質問なのです。よくない質問に答えはないのです。
本は探してもないのが、むしろ当たり前だからです。書店にあれほど本があって、本がないというのはなぜかと思われるかもしれませんが、今、目の前にある本は、たまたま目に前にある本というのにすぎないのが本の世界であり、それだけに大事なのは、自分で本と出会うということであり、自分で本を探すということであり、そうして自分で読むということです。

これが自分の椅子だ、これが自分にとっていちばんいい椅子だ、この椅子に座っていれば、たとえ本を読まなくて膝の上に本を置いて居眠りをしても楽しいという椅子にめぐりあえれば、人生の時間の感触はきっと違ってきます。

いい椅子を一つ、自分の日常に置くことができれば、何かが違ってきます。その何かが、じつは、読書というものが、わたしたちにくれるものなのです。そうすれば、それぞれの人生の過ごし方はずいぶん違ってきます。たとえば、いい膝掛けが欲しくなる。あるいは、空を見たくなる。

本というのは、本を開いて読めばいい、読まないうちは本を選んだことにならないのだということではないのです。本は読まなくてもいいのです。しかし、自分にとって本を読みたくなるような生活を、自分からたくらんでゆくことが、これからは一人一人にとってたいへん重要になってくるだろうと考えるのです。

とりもどしたいのは、日常の中で本を読むというのはこういうことなのだという、今はともすれば失われがちな実感です。そのためにも、深呼吸として、本は読みたい。わたしはそう思っています。

・言葉を結ぶもの

わたしたちは日本という国に生まれたと思っていますが、そうではなく、日本語という言語のなかに生まれたのです。(中略)
人間が言葉をつくるのではありません。言葉のなかに生まれて、言葉のなかに育ってゆくのが、人間です。

言葉のゆたかさとは、たくさんの言いまわしをあれこれ揃えることではありません。美辞麗句は言葉のゆたかさを意味しないのです。そうでなく、むしろ限られた言葉にどれだけ自分をゆたかに込められるかが、言葉にとっては重要なのです。

見つめるものは、何であってもかまわない。ただ何を見つめようと、まずそこにある言葉に心をむける。そこから言葉のありように対する感受性を研いでゆくようにすることを怠らなければ、目の前にある状況というのは、きっとまったく違って見えてきます。そうした経験の重なりから、言葉との付きあい方、係わりあいを通して、人間の器量というのはゆっくりとかたちづくられてゆくのだろうと思います。

・子どもの本のちから

子どもにはこういう本、大人にはこういう本、老人にはこういう本というような、壁で囲むような考え方は、わたしたちにとっての本の世界をすごく狭く小さなものにしてしまう。とりわけ、壁で囲むような読書のすすめ方をすると、肝心のものを落っことしてしまいかねないのが、子どもの本だろうと思うのです。

子どもの本というのは、子どものための本なのではありません。大人になってゆくために必要な本のことだというのが、私の考えです。

とりわけ、老いてから、だれもが子どもの本の生き生きとした世界に近づくことができるようだったら、どんなにいいだろうかと思います。

子どもの本になくてはならない三つのもの「古くて歳をとったもの」「小さいもの」「大切なもの」

子どもの本のあり方をいちばん傷つけてしまいやすいのは、何にもまして子どもっぽさを優先する、大人たちの先入観だと、わたしは思っています。

読書の鉄則は、ただ一つです。最初に良書ありき、ではありません。下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる、です。

子どもの本と付きあうというのは、大人が子どもの真似をして、子どもっぽくすることでもなければば、子どもが大人の真似をして、大人っぽくすることでもありません。(中略)肝心なことは、その本質として子どもの本が子どもの本であるということです。子どもの本と付きあうというのは、子どもの本を子どもの本たらしめている本質を感じとるという経験をする。そういうことだろうと思うのです。

本が、本を読むものに求めているのは、本を読むってカッコいいなと思えるような本と付きあう姿勢を、日常にたもつということです。ただ読めばいいのではありません。本は上手に読まないと、うそみたいに何ものこらない。上手に読むというのは、読んでよかったと、自分で自分に言える経験をするということです。

・共通の大切な記憶

木のまわりをぐるぐる勢いよく駈けまわるうちに、トラがバターになってしまう。そういう記憶をまざまざともっているのと、まったくもっていないというのとでは、世界の見え方はどうしたって違ってきます。

共通の大切な記憶とは、そこにそれぞれの記憶が集まってゆけるところ、ということです。日々にふえつづける情報を手に入れることによって、わたしたちが手に入れたのは、しかし、そこにそれぞれの記憶が集まってゆける、そういう共通の大切な記憶と違うものです。限りなく存在を薄切りにしてゆくのが情報だとすれば、可能なかぎり存在を厚くするのは記憶です。

・今、求められるもの

自分が生まれる前からずっとあって、言葉は、わたしたち自身より古くて長い時間をもっています。ですから、わたしたちは言葉のなかに生まれてくる。そして、自分たちがそのなかに生まれてきたもっとも古い言葉を覚える。成長するとは、言葉を覚えるということです。つくるものではなく、あつらえるものでない。覚えるものが言葉です。

言葉を覚えるというのは、この世で自分は一人ではないと知るということです。言葉というのはつながりだからです。
言葉をつかうというのは、他者とのつながりをみずからすすんで認めるということであり、言葉を自分のものにしてゆくというのは、言葉のつくりだす他者とのつながりのなかに、自分の位置を確かめてゆくということです。

人は何でできているか。人は言葉でできている、そういう存在なのだと思うのです。言葉は、人の道具ではなく、人の素材なのだということです。

経験というのは、かならず言葉を求めます。経験したというだけでは、経験はまだ経験にならない。経験を言葉にして、はじめてそれは言葉をもつ経験になる。経験したかどうかでなく、経験したことも、経験しなかったことさえも、自分の言葉にできれば、自分のなかにのこる。逆に言えば、言葉にできない経験はのこらないのです。

不幸というのは、言葉が信じられなくなる、ということです。

・読書する生き物

読書というのは、実を言うと、本を読むということではありません。読書というのは、みずから言葉と付きあうということです。みずから言葉と付きあって、わたしたちはわたしたち自身の記憶というものを確かにしてきました。
記憶を確かにするということは、自分がどういう場所にいて、どういうところに立っているか、東西南北を知るということです。

自分ではなかなか気づかない。実際にある言葉を口にして、その言葉で何かを言い表そうとして、どうしてもその言葉で言い表せない、あるいはその言葉で言い切れない、その言葉の外に余ってしまうものがあると感じる。その感じをくぐるうちに、自分の心のなかにある問題を発見する。
そのように、言葉でいえない、かたちはとりにくいけれども、はっきりそこにあると感じられる問題というものを、一つずつ自分の心のなかに発見してゆくということが、ひとが成長すること、歳をとるということだろうというふうに、わたしは思っています。

言葉というのはその言葉で伝えたいことを伝えるのではない。むしろ、その言葉によっては伝えられなかったものがある、言い表せなかったものがある、どうしてものこってしまったものがある、そういうものを同時にその言葉によって伝えようとするのです。

読書について言えば、ですから、答えを求めて読むのではなく、ひたすら読む。じっくり読む。耳を澄ますように、心を澄まして、言葉を読んでゆくほかに、読書のコミュニケーションはないというふうに、わたしは思いさだめています。

・失いたくない言葉

読書と情報は、一見とてもよく似ている。似ているけれども、おたがい似て非なるものです。読書は情報の道具ではないし、情報によって読書に代えるというわけにはゆかないからです。
簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。対して、情報といのは本質的に「分ける」文化です。

すべて読書からはじまる。本を読むことが、読書なのではありません。自分の心のなかに失いたくない言葉の蓄え場所をつくりだすのが、読書です。