『子どもは判ってくれない』内田樹/文春文庫 | 砂場

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本の感想と日記。些細なことを忘れないように記す。

内田 樹
子どもは判ってくれない

内田樹ブログからの書籍化。2001年から2003年のはじめにかけて書かれたものから選りすぐられエッセイが収録されている。

僕は雑誌や新聞などの書評をよく読む。色々な職業の人が書評を書いている。書評家の人は酷評している事も多いが、作家の人は褒めている事が多いような気がする。好きだからこそ酷評することもあるのだろうが、酷評している人はなんだか楽しそうなのが胡散臭い。僕はたとえ理解できなくても、不快な部分があっても、前向きに読みたいといつも思っている。書店員として嫌いな本を売るよりは好きな本を売りたいという所もある。本書には、そういう前向き書評を肯定してくれる記述があった。

書評においては、「その本の蔵しているいちばん豊かな可能性にピンポイントする」というのは私のポリシーである。
(中略)
悪口を言うときには対象への適切な理解は不要である。
しかし、ほめるときには対象への適切な理解(と少なくとも書き手自身に承認されること)が必要である。
だから、私は(よく理解できないけれど)理解したいと思うものについては、「とにかく、ほめる」というスタンスを自らに課している。経験的には、「よく分からなくても、ほめる」ことによって「よく分からない」対象への理解は確実に深まるからである。

という箇所を深くうなずきながら読んだ。以前に読んだ『読書と社会科学』という本で内田義彦先生はこう書いていた。

感想をまとめる場合には、全体のなかで要するにどこが一番自分に面白かったか。つまり、そこのところの一つでも、この本を読んでよかったと思われるところは何か、あるいは何と何かをまずハッキリさせる。そして、それは――そこが自分に面白かったのは――何故であろうかを考える。つまり焦点づくり。あの本は、少なくともこことここが――誰が何と言おうといまの自分には――面白かったということ、これが読書の基本です。

こういう読書をしたいなと、改めて思っていたら、他の部分でこういう箇所を発見。

人は「好きなもの」について語るよりも、「嫌いなもの」について語るときの方が雄弁になる。そのときこそ、自分について語る精密な語彙を獲得するチャンスである。

困った、語彙力も欲しい。

以下、他の気になった文章を抜粋

誤解している人が多いようだが、けなすのは簡単で、ほめるのはむずかしい。

本に呼び寄せられること、本に選ばれること、本の「呼び声」を感知できること。それがたぶん本と読者のあいだに成立するいちばん幸福で豊かな関係ではないかと私は思う。

「理屈っぽい人」は一つの包丁でぜんぶ料理をすませようとする人のことである。「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである。
(中略)
「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。

自立というのは、ある意味では単純なことだ。
それは要するに「バカな他人にこき使われないですむ」ことである。

彼らは「人に迷惑をかけない」というのが「社会人として最低のライン」であり、それだけクリアーすれば、それで文句はないだろうというロジックをよく使う。
なるほど、それもいいかもしれない。でも、自分自身に「社会人として最低のライン」しか要求しない人間は、当然だけれども、他人からも「社会人として最低の扱い」しか受けることができない。

人間がどれほど変化しても変化しないもの、それは、「変化する仕方」である。

自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。

反対者や敵対者を含めて集団を代表するということ、それが「公人」の仕事であって、反対者や敵対者を切り捨てた「自分の支持者たちだけ」を代表する人間は「公人」ではなく、どれほど規模の大きな集団を率いていても「私人」にすぎない。