『知のソフトウェア』に続いて立花隆流の読書論。独学のための本の選びかたなど実践的な内容は役に立ちそうだ。
後半の読書日記は流し読み。立花隆の読む本と僕の興味のある分野や違うので目に止まるものは少なかったが、荒俣宏の本を紹介している箇所は面白かった。日本でトップレベルの読書量と自認する立花隆ですら脱帽する書物狂いらしい。
・知的好奇心のすすめ
人間がこれまで生み出してきたすべての文明というのは、一見、実用的な知的欲求、つまり経済的な合理性を持つ知的欲求の所産のように見えるけれども、実はそれは表面的なもので、われわれ人類をもっと深いところで突き動かしてきたのは、より原初的な知的欲求、とにかくもっと知りたい、もっともっと知りたい、という根源的な欲求だったんだろうと思います。
知識を分有することによってこの文明社会は何とかここまで維持発展されてきたのですが、その知識総量が多くなればなるほど、各人の分有する知識の幅は狭いものにならざるを得ません。その結果、知識総量と各人の保有知識量の比を尺度にとってみると、文明が発展すればするほど人間は無知の度を深めつつあるといえるわけで、これは文明社会の行く手を考えると、由々しき事態であるといえるでしょう。
オートマトンの自分に満足しないで、知的欲求を常に新しいものに振り向け続けている人間というのは、永遠に内面的に成長を遂げていくことができる。まさにそういう生き方こそが、本当の意味で、人間としてより良く生きるということなのだろうと思います。
※オートマトン 意識せず行動している自動化された部分
・私の読書論
現に読者が離れてしまったということが、それが古典ではなかったとのなによりの証明のわけです。時代を越えて読者を保持しつづける能力を持つものだけが古典たりうるのであって、その逆ではないのです。
あるものを読むことをお互いに共通体験として持つと、それについて語りあうこと自体が意味を持ってくるからです。つまりその書物があるメッセージを持っているメディアたるにとどまらず、それ自体が論ずべき対象、語りあうときのマテリアルになる、そういうマテリアルとして適切であるものが、結局、本当の意味の古典として生き残っていくのではないかという気がするわけです。
・体験的独学の方法
大学教育を受けた人ならたいてい覚えがあるはずだが、授業で得た知識より、自分で本を読んで得た知識のほうがはるかに大きいものだ。私の記憶によれば、大学ではよき教師ほど、自分の授業に学生を拘束しようとはせず、むしろ授業を通して独学の仕方を教えようとする。
ある程度の方法論さえ身につけてしまえば、たいていの学問は独学可能である。
まえがき、あとがき、目次、奥付だけは必ず見なければならない。まえがき、あとがきで、著者がどういう心づもりでそれを書いたかわかるし、訳者の場合はあとがきで、その本の客観的評価が得られる。たいていの本は、まえがき、あとがきをよく読めば、購入する価値があるかどうかの判定をつけることができる。それに奥付を見れば、定評ある教科書は多くの版を重ねていることからもそれとわかる。
一冊の本を精読するより、五冊の入門書をとばし読みしたほうがよい。ノートをとらなくても、ほんとに重要なことはどの本でもくり返されているから自然と頭に入る。ノートをとる代わりに、アンダーラインを引いたり、ページを折っておけばよい。あとは索引を頼りにすればよい。本は粗末に扱ったほうが役に立つ。
よくよく選んで買ったつもりでも、実際に読んでみるとつまらないという本が必ず出てくるものである。(中略)その場合には、せっかく買ったのだからなどとケチなことを考えずに、即座に読むのをやめる。買い込んだ本の二割くらいは、そういう本になると覚悟しておいたほうがよい。
・ぼくはこんな本を読んできた
文学を経ないで精神形成をして人は、どうしても物の見方が浅い。物事の理解が図式的になりがちなんじゃないかな。文学というのは、最初に見えたものが、裏返すと違うように見えてきて、もう一回裏返すとまた違って見えるという世界でしょう。表面だけでは見えないものを見ていくのが文学だもの。
発見というのは不思議なもので、自分でも、書いてみて初めてわかることがある。文章を頭の中でひねっているときは、まだかなり混沌とした状態にあるわけです。混沌の中から具体的な文章をひねり出して初めて、自分自身、「あ、そうか」と思うときがあるんですね。
