『戦闘美少女の精神分析』斎藤環/ちくま文庫 | 砂場

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本の感想と日記。些細なことを忘れないように記す。

斎藤 環
戦闘美少女の精神分析

ナウシカ、セーラームーン、綾波レイという日本の漫画・アニメに特有の「戦う少女」。おたくの心理的特性を分析し、そこから戦闘美少女の存在理由を解き明かすという壮大な内容。

おたく論の本は今までほとんど読んだことがなかったが、ここまでハイレベルな論議になっているとは思ってもみなかった。ここ数年間に読んだノンフィクションの本のなかでは一番かも知れない。理解できない部分も多かったが、興味深い考察ばかりで、ほとんど一気に読破。もっと勉強してから、再読したいと思う。

以下、気になった箇所で理解できた部分のみ引用。引用した箇所だけ読むと、自分がいかに浅い部分しか理解できていなかったか分かるなあ…。

・おたくとマニアの違い

マニアは一般的に、その趣味がいかに実体として有効であるかを競い合う。コレクターはまさにコレクションの物量の大きさを誇る。ここにはもちろん、「希少価値」という「確率的判断」も含まれる。
(中略)
おたくにはこうした「実体」や「実効性」への志向がむしろ乏しい。

・おたくの熱狂≒萌え

つまり「おたくの熱狂」は「マニアの熱狂」よりも演技性が高いのだ。これはつまり「熱狂」というコードで他のおたくたちに交信しているような状況を指している。そいうはいっても、けっして醒めているわけではなく、かといって我を忘れて熱狂しているわけでもない。この「斜に構えた熱狂」にこそ。「虚構コンテクストに親和性の高い」おたくの本質があるだろう。後でも触れるが「○○萌え」という表現が、このあたりの呼吸を見事に表現している。

・おたくは評論家

一般におたくは評論家である。(中略)評論を忘れたファンはおたくには見えない。(中略)そして彼の饒舌は作品そのもののみならず、作品と自分との関係性にすら及んでゆくだろう。おたくが評論するとき、その情熱はまたしても、新たな虚構を創造するという所有への熱意に重なる。つまり極言すれば、おたくは自分の愛好する対象物を手に入れる手段として「それを虚構化する」「それを自分の作品にする」という方法しか知らない。
(中略)
おたくにとってはマニアにおいては厳しく要請される「情報の正確さ」の価値は、「正確であるに越したことはない」程度のものだ。

・おたくからみた虚構と現実

彼らは現実を虚構の一種とみなしている。それゆえ現実を必ずしも特権化しないことが、現実逃避ととられやすい部分なのかもしれない。その意味でおたくは「虚構と現実の混同」をすることは決してないが、「虚構と現実の対立」を、さほど重視しない。彼らはむしろ、虚構にも現実としてひとしくリアリティを見いだすことが出来るのである。

・おたくの特殊能力

おたくはまさに、虚構の虚構性に対してすら多層的なリアリティを発見する。アニメのキャラクターは当然として、脚本やキャラクターデザイン、作画監督からマーケティング評論から鑑賞のツボに至るまで、虚構のあらゆる水準においてリアリティを見いだし、それを楽しむことができる。これがおたくの特殊能力なのである。

・漫画における多重人格的空間

しばし誤解されがちなことだが、多くのサブカルチャーがそうであるように、漫画というジャンルも、表現の自由度はきわめて低い。小説に比べるとき、その様式性、物語の振幅、記述の視点などは、はるかに狭く規定されている。(中略)このため漫画には、ある程度以上複雑な物語おを描くことが出来ない。登場人物の性格は、ひと目で了解される程度に単純でなければならない。複雑な性格が描けないというのことは、複雑な物語が描けないということでもある。このゆえに漫画においては、個々の人格単位は必然的に典型でなければならない。
(中略)
つまるところ漫画作品は、作品全体で一つの人格を総合的に表現する。
(中略)
それは「複雑な人格」は描き得ないかも知れないが、「魅力的な典型」をしばしば産出する。

・虚構と現実

漫画・アニメという虚構空間において、自律的な欲望の対象を成立させること。まさに、それこそが、おたくの究極の夢ではなかったか。「現実」の性的対象の代替物にすぎない「虚構」などではなく、「現実」という担保を必要としない虚構を作り出すこと。どんなに緻密に虚構世界を構築してみせても、それだけではまったく不足なのだ。虚構が自律的なリアリティを獲得するためには、虚構それ自体が欲望される必要がある。もしそのような虚構が可能になるなら、その時はじめて「現実」は「虚構」に跪くたどう。

・西欧的における虚構の下位性

例えばアメリカの大衆文化において、もっとも上位に置かれる虚構のスタイルは「映画」である。小説にせよ舞台にせよ、映画化によって上がりの証明とされる。もちろんこれには複数の要因がありうるだろうが、その一つが「実写映画は現実のもっとも忠実な模倣・再現である」という信仰ではないだおろうか。