- 内田 義彦
- 読書と社会科学
最近、読書に関する新書を古本屋で見かけたら適当に買っている。この本は「社会科学」とタイトルにあるから、ちょっと違うかなと思いきや、今まで読んだ本のなかでもトップレベルの内容。
「知的生活」系の読書は「生活」とあるぐらいだから「趣味」に近いところがある。だが本書は「趣味」というより「仕事」に近い。読書に対する心構えが違う。学者にとって、読書とは人生を賭けた真剣勝負だという気合が随所にみられる。
成心をもって本に接し、自分を本にぶつけるようなことをせず、自分を殺し本に内在して、本から、本を通じて著者がいいたかったであろう言い分を、心を尽くして、耳を澄ませて自分で聴きとるようにして下さい。そのように著者を大事に本を読んで、そこに自然に浮かび出る自分自身の――自分の生活現実から生れた、したがってそこから出発せざるをえない――感想を何よりも大切にし、それを大事に育て上げるようにして下さい。
僕も読書人として、いずれこういう境地に達したいなと思う。
以下、気になった文章の引用
・古典としての読み
文章は同じなんですよ。A氏の本の何ページというのはまったく同じで、その同じものの読みが変る。読み手である自分の成長とともに違ってくる。古典の名に価する古典であるほど、その違いは大きいですね。古典がそうだというよりも、むしろ、そうであるのが古典だといい変えておきます。その方が正確ですから。現在古典として一般に認められているかどうかは別として、そういう内容をもったものは、あるいはものこそが、すなわち古典である。この認識は重要ですから、御記憶ねがいます。
書く方は、あくまで一読明快を念として、死力をかたむける。避けうる晦渋に無神経であるような、いわんや難解をこととしているような本は、書かれた中身からいってもとうてい古典としての内実をそなえ得ない。ということを作者は知悉し、意識して、一読明快な文章への結実に骨身をけずるのだが、それにもかかわらず、あるいはむしろその努力によって、一読明快からはみ出すものが、結果として含まれている。それが古典でしょう。
不注意に読めば何でも読みちがいがあります。しかし古典は、ある意味でていねいに読めば読むほど、各人に違った中身を呈してくる。これは古典としての読みに特徴的なことです。
・読み深めの諸相
まず最初に「信じて疑え」。本を読むからには「信じてかかれ」ということを申上げたい。仮説的に信じて読むということです。自分の読み――あるいは読むときの自分の感じ――に対する信念だけあって、はずという、著者らしい著者としてのA氏に対する信の心が無ければ、本文の字句に対する具体的な疑問がかりに起こったとしても、その疑問は、ミスプリか思いちがいだろう、といったかたちで、本文に勝手な改訂を加えて安直に読むことで、解消してしまうでしょう。熟読・熟考によって解明すべき箇所・具体的な事実そのものが消えてしまう。自負――じつは他者一般に対する浅信――からくる本文の読みとばし・粗読です。
(中略)
駄本ばかり読んでいるとこういうくせが身についてしまいます。本とは「適当に」読み流すべきもの。
(中略)
他方でしかし、これとは反対に、著者への信だけがあって、自分の読みに対する信念がおよそ無ければ、あるいは、本を信じて自分を放棄してしまっては、これまた精読はできない。
・書け、而して書くな
いったい、本にかぎらず、本当にいいものに接して魂がゆすぶられる思いがしたとき、そう簡単に感想がでるもんでしょうか。それも、感想文にまとまりやすいような多少とも理路整然たる形で。そうじゃないですね。
著者が、文章に苦心して凝結させたところの、自ら見、伝えたかったものが、直接に私の生活現実にかかわって、私の魂に響いてくるからこそ、とらえ難いんです。そう簡単に、まとめうるようなものでは、それは無い。そしてまた、そうだからこそ、こととらえ難いものが大事であり、それをしかりと受取ることが、大切なんです。読書が与えてくれるもっとも貴重なもの、豊潤なものはそれです。
その「いぶき」を大切にして、それを取り逃がさないように、しっかり取りこむために感想を書く。書く労苦を払わなければ、――さしあたってはちょこちょこっとした書き込みでもいいんでしょう――その大事な「いぶき」・「もや」も、漠たる印象に終わって、やがて時とともに中身は消えさってしまう。あの本はよかったという印象だけ残って、さて、しかし何がどうよかったのか全く思い出せない、ということもよくあります。あの時読んだあの本はよかったなというかたちに終わって、時の経過を貫いて「いま」に生きるものを残さない。文化ショックがショックに終って創造に向かって働かない。だから絶対書かなきゃならない。
それも――この本をと思った場合には――自分用のノートにまとめるだけではなく、他人に理解可能な文章にまとめ上げる労苦を払わねばなりません。他の人にも通じる正確な理解への努力を欠いては、恣意的ではあっても、真に個性的な理解にはなりませんからね。
しかしまた逆に、書くという行為が、大事な「もや」たる「いぶき」を消し。あるいはそもそもはねつけるかたちで本に接する結果をひき起こさぬよう、くれぐれも注意をしていただきたい。とくに、理路整然と他人に理解可能なかたちでの感想文を、みだりに、早急に書くことは特別に要注意です。早急な理路整然化の危険と、他人の同意を安直に求める危険の二つを含んでいますから。それは審査員である他人の価値基準への迎合になりやすい。こう書けば通じるだろうというあれですね。
読み手としては、どこまで書きにくく読むか――書きにくいところを書きにくいまま受取ること――が勝負であります。他方書き手としては、読み手である自分が書きにくく受けとってきたその感想を、如何に明確に書きとめてみせるかが勝負といっていい。読者は、この矛盾した両者を一身のなかでともに育て上げ、競い合わせる。そのせめぎ合いのなかで真に正確で個性的な確かな読みが出てくるんで、そこに、読書の意味と妙味があるんです。
成心をもって本に接し、自分を本にぶつけるようなことをせず、自分を殺し本に内在して、本から、本を通じて著者がいいたかったであろう言い分を、心を尽くして、耳を澄ませて自分で聴きとるようにして下さい。そのように著者を大事に本を読んで、そこに自然に浮かび出る自分自身の――自分の生活現実から生れた、したがってそこから出発せざるをえない――感想を何よりも大切にし、それを大事に育て上げるようにして下さい。
そして、感想をまとめる場合には、全体のなかで要するにどこが一番自分に面白かったか。つまり、そこのところの一つでも、この本を読んでよかったと思われるところは何か、あるいは何と何かをまずハッキリさせる。そして、それは――そこが自分に面白かったのは――何故であろうかを考える。つまり焦点づくり。あの本は、少なくともこことここが――誰が何と言おうといまの自分には――面白かったということ、これが読書の基本です。
・確信にあぐらをかくな
自分の眼を信ずることは大切で、それは何より大切ですけれども、自分の眼を盲信し自分の意見に泥んじゃいけない。見得べきものが見えなくなる。
・創造としての読み
大事なのは、深く信じること、信の念の厚さです。作者を深く信じて、同時に、自分の眼にすべてを托し、自分の眼でみえるかぎりのものを追求して、そこに自分を賭ける、その双方の面での信の念に支えられて、そのせめぎあいのなかから、初めて本当の「疑い」が、またその疑いを解決しようとする真剣な――持続する、苦渋に満ちた――努力が、生れてくる。
・自分の眼を補佐するもの
本を読むことは大事ですが、自分を捨ててよりかかるべき結論を求めて本を読んじゃいけない。本を読むことで、認識の手段としての概念装置を獲得する。これがかなめです。