どんどん風景が変化して来たのを
目で見て、肌で感じながらも
その違和感をないものとして
生きている、生きて来たように感じる。
建物がコンクリートになり
自動車ありきでの街づくり、国づくり。
その恩恵も大きくて、今更それに抗うことは
出来ないだろうし、
昔も戻ればいいという単純なことではない
とは思う。
でも
なんとなく居心地が悪く
生身の人間の身体が
生命のない、生きていないものに囲まれることの
閉塞感のような、憂鬱、窮屈さ、苛立ちのような
感覚を当たり前の仕方のないこととして
置き去りにしたまま生きている。
子供のころは木造建築がほとんどで
堺は垣根であったり、境すら曖昧に
隣り近所があり、山や林、畑なども
なだらかな変化で繋がっていて
どこもが里山のような風景だった。
夕方にはカラスが夕陽に向かって飛んでいたし
蛇や蛙、虫や小動物も
生き生きと生を謳歌していた。
そんな中にいた頃には
今のような他を犠牲にしている自分
という居心地の悪さは無かった。
山から丘から畑
そして木造の家
今のような硬くガッチリした
作られた庭ではなく
なんとなくの境があるようなないような
その繋がりによって
自分もその中に生かされている安心感があった。
今のような原因がはっきりわからない
焦りや苛立ちも感じでいなかったように思う。
分断されて、個を強調されて、
断絶されているような
心が狭く硬くなるような感覚は
無かった。
この文化文明の発展というのは
本当に必要なんだろうか?
食べて働いて寝て
笑って泣いて
虫の声を聞いて、鳥の囀りめ目を覚まして
人が踏み固めた土屋の上を歩く。
穏やかな気持ち。。。
それ以上に必要なものは
いったいなんだろう。
ただ自然の声に耳を傾けて
思考が静かに収まっている
清々しく、凛とした空気
そこに身を置くこと以上に
必要なことはなんだろう?
たくさんの物に囲まれても
思考はうるさく
自然の声は
人間が発する、機械が発する
騒音にかき消されてしまう。
求めているのは
時には危険や恐れも感じ
自分の自我がとてもひ弱で
でももっと大きな自己を感じる機会と
出会ったりしながら
生きている。。。生を感じること
静かで穏やかで時に激しく。
里山のような風景は
もう取り戻すこともできないのかな。
そこに憧れて、戻りたいと思いながら
便利だと言われる中で
そこに甘えて薬をしながら
苛立ち、孤独になり生命でないような不安を
物で埋めようと必死になる。
一人で静かな時
何が必要なのかと
自分の奥底に問いかけてみると
もしかすると誰でも知っているんじゃないだろうか?
穏やかな気持ちに戻りたいんだ。。。と。
そこそこの便利さと
そこそこの不便さ
風景を壊す違和感のある建物。
それを一つだけ見たら
おしゃれと言われる物だったりするのかも知れないけれど
調和を忘れた我の現れのようにも見えてしまう。
生き物である自分は
生命の中で生きたいと
本当はそれが欲しいと思っている。
発展ってなんだろう?
循環のない発展は命は宿らない気がする。
循環しているから
生き生きとしていられる。
硬く固まってしまったものは壊れて
他のものになるという生活の繋がりはない。
理想を言えは
そこそこの不便と
そこそこの便利
そこで循環して新たになって行く生命の
ひとつでいたい。。。
わがままな勝手な理想。