初めまして。医3プレの六山です。
この写真は昨日の夕方に撮った瀬田川の写真です。空が面白い色をしていたのですが、僕のiPhoneSEだと色々と限界があるようです。
次の担当だった米良ちゃんに代わってほしいと頼まれたので、何も考えずに書いています。
僕も文章を書くのが好きじゃないので、正直何も浮かんできません。
多分、厨二病っぽい内容になると思いますが、僕はいつもこんな感じなのでご容赦ください。
前のブログの通りですが、4月24日の1000TTを以って対校クルーが確定しました。対校クルーとしての初めての大会出場はまたもやコロナウイルスに阻まれてしまい、割とショックを受けてモチベーションが下がるかと思いましたが、僕としてはほかの大学のクルーの漕ぎを見て様々なインスピレーションを得ることができたので、収穫が0ではなかっただけよかったとは思います。そこで、この感情を文字に起こしておくという意味で、このブログを使わせてもらいます。
さて、僕が部活に携われる時間もあと1年と少しとなった今、佳境に差し掛かったと思って考えたことがあります。
改めて、自分にとってボート競技は何たるかを考えなければならない、と。
唐突ですが、よく聞く価値観は、「ボートはマッチポンプな競技である」という捉え方だと思います。
これはどういうことかというと、ボートで速くなるためにキツいトレーニングを繰り返し、身体的にも精神的にも苦しい状況は、大会などのオープンな場所での結果に寄与し、そこで「報われた!」と思うことで折り合いがつくということです。要は、しんどい思いをしてもそれが報われたと感じられたらいい思い出になるやん、ってことです。これは大きいスケールでの話ですが、もちろん1回1回の練習でも同じことで、例えば連続したON/OFFメニューの中でも、うまくいった・いかなかったで一喜一憂し、爽快感や達成感が滲む経験は誰しもあると思います。
こうした考え方が、悪い精神性であると言いたいわけではないです。でも、何か物足りないといった感じがしませんか?ボートという繊細な競技で勝ちを求めるには、もっと静謐な心で臨まなければならないのではないか、と少し崇高な理念を求めてしまうのが僕のような人間です。
個人的に、コンマ数秒のタイミングがバランスや出力を左右する水上では、オールの誤差はローヤーの気分をも反映してしまうと感じます。かといって、心のないロボットのように同じ動作を繰り返すマシーンになればいいのかと言われれば、それもまた違うのは当然です。例えば、スタートやスパートの高揚や焦燥はレースの勝敗に直結しうる重要な要素ですし、自分の限界のリミッターを外して予想外の伸びを生み出すこともあるので、感性はスポーツにおいて必要不可欠です。
では、我々ローヤーは、どのようにボートを捉えたらいいのか、ってことを考えました。その答えは人それぞれだと思いますが、僕がここで書くのは、「ボートとは、カタルシス的競技である」という考えです。
カタルシスってなんやねん、って思う人が多いと思うので辞書コピペをすると、「イライラする気持ちや何かに不安に思う気持ちといった私生活に影響を与えるようなネガティブで淀んだ感情を浄化すること」らしいです。宗教が発祥の概念らしいですが、もっとフランクに受け取ってください。まぁぼんやりというと、勉強とかバイトとか嫌だけど、ボートに乗ったらストレス発散できる!って思いたいなあ、ってことです。対校クルーなのでプレッシャーや使命感が先行することが多いですが、日常生活と部活動を二面的に捉えて、相互にフィードバックできたらいいなぁと思います。実際、ボートは断続的な動力で推進するので、初速度以外に緊張と弛緩の切り替えによる伸び(減速率)もタイムに大きく影響します。この伸びは、風を感じるような漕ぎの気持ちよさに表れると思っていて、結局のところ速いクルーってしんどい以上に楽しいんじゃないか、って理想を持っていたこともあります。来年キャプテンになる僕としては、今年の対校には、結果を残すだけではなくてこうした哲学?を再構築し、後輩たちに引き継いだクルーとして評価されたいという期待を勝手に抱いています。
これまでブログを書いてきた人たちが思ったより長めだったので結構引き伸ばしましたが、そろそろ限界なので締めたいと思います。
わざわざ読んでくださり、ありがとうございました。