私は、上に二人の姉がいる、三人姉妹の末っ子。
私の名前は「かおり」。
平仮名で3文字。
上の姉は二人とも、漢字3文字の名前なのですが、だからといって、別段疑問に感じることは無く過ごしていた。
そんなある日のこと。
私が高校生くらいの時だっただろうか。
父も未だ健在で、母と3人で何気ない雑談を交わしていた時、ふと、母が語った。
『あんな、あんたの名前も実は、漢字3文字で決めててん。けど、役所に届けるとき、漢字を度忘れしたお父さんが、平仮名で届けを出してん。』
あらま。
お父さんったら、うっかりさん(・e・)
若干の末っ子の扱いのラフさは否めないが、既に馴染んでいる平仮名の名前にはそれなりに愛着もあったので、扱いのラフさへのショックよりは、どんな漢字をあてがっていたかの興味の方が大きく、
『へぇ~(・e・)どんな漢字やったん?』
「香」とか、「香織」とか、1~2文字表記ではなく、3文字だとすれば「香保里」とか、「佳央理」なんてのもあるなぁ。
そんな事をとりとめもなく考えながら、両親に尋ねた。
『かのうせい の か こえる という じ と さと』
?!
何かの呪文?
しかし、ゆっくり脳内漢字変換したら、
『可能性の❪可❫ ❪越❫えるという字 と ❪里❫』
「可越里」という漢字3文字が浮かんできた。
ぱっと見は、名前と認識しづらい字面ではあるが、そこは、ちょっと特別な私♡(はあと)に憧れる女子高生。自分の名前に対して更なる愛着が湧いた。
その時は、それだけで終わったけど、今になって思う。
名前というギフトは、自分が自分で在るための、道標のようなものだと。
ここからは、私の独断の意訳になりますので、あしからず。
❪可❫は、及第点。特化はしていないけど、それなりの課題はクリアしてるということ。
❪里❫は、村とか組織の単位であったり、縦横に通る筋道のようなもの。
❪可❫と❪里❫の間にある❪越❫は、そこから先は無いと思い込んでいる端っこやら先端を❪越❫えるということ。
そこから読み説いて「可越里」という名は、今のそれなりの自分や、今の常識と思われている事や道理と捉えられていることを飛び越えていき、自分の世界を拡げるという意味を持つ。
しかも、うっかり漢字を忘れるという、父の、人間臭く愛らしい部分も含めて、「かおり」という名前は「私」の道標。
そんな風に感じる。
もしや、両親には、実はそこまでの想いは無かったのかも知れないけれど、そこはそれ、「偶然という名の必然」ということと致しましょう。
お父さん、お母さん。
よき名前をありがとう( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆