追悼三沢光晴:三沢光晴と私
6/13。
あるニュースに目が止まりました。
“プロレスラー三沢さん倒れる。”
その言葉自体が信じられませんでした。
最近病気等で亡くなる方は沢山いますが、三沢はまだ40代。
一向にニュースは更新されずに1時間。
ついに…
亡くなった事が報じられました。
なんとも言えない喪失感に、
久々に声を上げて泣きました…
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
1993年頃。
私はプロレスファンになりました。
夜中に良くプロレスをなんとなく、不定期で見ていたのですが、最初は好きでもなんでもありませんでした。
うろ覚えですが、川田が良く鶴田に場外パワーボムをくらっていて、失神させられていました。
「川田、またやられたか…」
今思うと、キレた鶴田を見たのは初めてでした。
鶴田は良く知ってましたけど、あの通り呑気な人だとずっと思っていただけに、ギャップに驚いてました。
「三沢も頑張ってるな…。」
大した知識が無い頃でしたから、そのくらいの感想でした。
ですがある時、三沢対田上の三冠戦を見て驚愕しました。
「凄い…ここまでやるんだ…」
不透明決着や、場外乱闘、乱入ばかりだと思っていたのですが、当時の四天王(三沢、川田、田上、小橋)の戦いは真面目で、武骨な凄い戦いでした。
「世間ではプロレスなんて、て言われているのに、ここまで頑張っているんだ…」
それからはTVに毎週かじりつき、週刊プロレスなる雑誌を買い始めました。
当時は40万部も発行されていて、単独競技を扱う専門誌では珍しい現象と言われてました。
私は………猪木が嫌いでした。
試合も見たし、その良さはあったのですが、やはり四天王の戦いの方が好きでした。
完璧にハマったのはその三冠戦と、小橋がウィリアムスとやった次期三冠挑戦者決定戦(豊橋体育館)でした。
四天王の戦いとは、
“カウント2.9の攻防”
と
“危険な垂直落下系の技の応酬”
がもっとも分かりやすいと思います。
何時果てるかわからない精神戦を繰り返し、2.9で返しまくる。
新日本や他団体の試合なら、10分や15分で終わる所を、20分、30分とやります。
もう、いいんじゃない?を越えてからの返しが2.9の攻防でした。
そして、バックドロップ等、単なる投げ技にせず、形を変えて受け身を取りにくくしたり、
垂直に落としたり、投げっ放しという危険なアレンジ。
いつも唖然としていました。
思わずうなってしまった事も沢山ありました。
日本武道館にも何度も足を運びました。
NOAHの旗揚げにもディファの外で立ち会いました。
試合後、三沢は、危険な技でめり込んだ首を戻すため、若手に引っ張らせていたり。首を氷で冷やしていたり。
激闘は、沢山のダメージを三沢に与えていた事でしょう。
体の大きかった馬場さんのような試合はできなかったのです。
「馬場さんとは違って、俺らは作り上げた体ですから…。」
当時言われていた“命を縮める戦い”は、嘘でもなんでもなかったのです。
当時感じた事は間違いなかったのです。
三沢さんが亡くなったのは、運命です。
馬場さんが亡くなって、精神的支柱を失い、40人以上引き連れてNOAHを立ち上げたのも、運命です。
社長としてNOAHを経営、選手として盛り上げ、苦しみながら休む事なく頑張り続けて無理をしたのも、運命です。
運命を受け入れます。
いつも三沢の凄さに、刺激を受けて来ました。
こんな凄い人にはなれない。
世間では一部にしか認められてなかった“馬場、鶴田・天龍後の壮絶なプロレス”を見て来られた事を誇りに思います。
何回も驚愕してきたから。
何回も涙してきたから。
そして、仕事や私生活でも励まされてきました。
あなたのことを忘れません。
ありがとう、三沢光晴。
あなたを語り続ける使命が私にはあります。
また、語りたいと思います。
無敵の人。
ギリギリまであきらめない人。
誠実な人。
家族や仲間を裏切らない人。
男の中の男。
誰もが悪口を言わない人。
趣味に、好きなものに一所懸命な人。
合掌。
あるニュースに目が止まりました。
“プロレスラー三沢さん倒れる。”
その言葉自体が信じられませんでした。
最近病気等で亡くなる方は沢山いますが、三沢はまだ40代。
一向にニュースは更新されずに1時間。
ついに…
亡くなった事が報じられました。
なんとも言えない喪失感に、
久々に声を上げて泣きました…
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
1993年頃。
私はプロレスファンになりました。
夜中に良くプロレスをなんとなく、不定期で見ていたのですが、最初は好きでもなんでもありませんでした。
うろ覚えですが、川田が良く鶴田に場外パワーボムをくらっていて、失神させられていました。
「川田、またやられたか…」
今思うと、キレた鶴田を見たのは初めてでした。
鶴田は良く知ってましたけど、あの通り呑気な人だとずっと思っていただけに、ギャップに驚いてました。
「三沢も頑張ってるな…。」
大した知識が無い頃でしたから、そのくらいの感想でした。
ですがある時、三沢対田上の三冠戦を見て驚愕しました。
「凄い…ここまでやるんだ…」
不透明決着や、場外乱闘、乱入ばかりだと思っていたのですが、当時の四天王(三沢、川田、田上、小橋)の戦いは真面目で、武骨な凄い戦いでした。
「世間ではプロレスなんて、て言われているのに、ここまで頑張っているんだ…」
それからはTVに毎週かじりつき、週刊プロレスなる雑誌を買い始めました。
当時は40万部も発行されていて、単独競技を扱う専門誌では珍しい現象と言われてました。
私は………猪木が嫌いでした。
試合も見たし、その良さはあったのですが、やはり四天王の戦いの方が好きでした。
完璧にハマったのはその三冠戦と、小橋がウィリアムスとやった次期三冠挑戦者決定戦(豊橋体育館)でした。
四天王の戦いとは、
“カウント2.9の攻防”
と
“危険な垂直落下系の技の応酬”
がもっとも分かりやすいと思います。
何時果てるかわからない精神戦を繰り返し、2.9で返しまくる。
新日本や他団体の試合なら、10分や15分で終わる所を、20分、30分とやります。
もう、いいんじゃない?を越えてからの返しが2.9の攻防でした。
そして、バックドロップ等、単なる投げ技にせず、形を変えて受け身を取りにくくしたり、
垂直に落としたり、投げっ放しという危険なアレンジ。
いつも唖然としていました。
思わずうなってしまった事も沢山ありました。
日本武道館にも何度も足を運びました。
NOAHの旗揚げにもディファの外で立ち会いました。
試合後、三沢は、危険な技でめり込んだ首を戻すため、若手に引っ張らせていたり。首を氷で冷やしていたり。
激闘は、沢山のダメージを三沢に与えていた事でしょう。
体の大きかった馬場さんのような試合はできなかったのです。
「馬場さんとは違って、俺らは作り上げた体ですから…。」
当時言われていた“命を縮める戦い”は、嘘でもなんでもなかったのです。
当時感じた事は間違いなかったのです。
三沢さんが亡くなったのは、運命です。
馬場さんが亡くなって、精神的支柱を失い、40人以上引き連れてNOAHを立ち上げたのも、運命です。
社長としてNOAHを経営、選手として盛り上げ、苦しみながら休む事なく頑張り続けて無理をしたのも、運命です。
運命を受け入れます。
いつも三沢の凄さに、刺激を受けて来ました。
こんな凄い人にはなれない。
世間では一部にしか認められてなかった“馬場、鶴田・天龍後の壮絶なプロレス”を見て来られた事を誇りに思います。
何回も驚愕してきたから。
何回も涙してきたから。
そして、仕事や私生活でも励まされてきました。
あなたのことを忘れません。
ありがとう、三沢光晴。
あなたを語り続ける使命が私にはあります。
また、語りたいと思います。
無敵の人。
ギリギリまであきらめない人。
誠実な人。
家族や仲間を裏切らない人。
男の中の男。
誰もが悪口を言わない人。
趣味に、好きなものに一所懸命な人。
合掌。
