唐突だが最近思ったこと。


仕事でチーム組むと俺が最年長だったてなことがここんとこザラになってきた。現場をドライブさせる主要な立場の輩が20代後半の連中というのが最近多いケース。当然の如く一緒に組んだこちらが半ばトレーナーのように立ち振る舞うことになるのだが、そこでいろいろと考えてしまった。


彼ら若い連中の「青春」について。



「青春」という言葉はまだ死語ではないのか?邦楽が最近のJ-POPなるものになってからほとんど聴いてないのでよくわからないのだが、青春という言葉を入れたタイトルや歌詞はほとんど無いのではないか?それくらい最近は青春が見えにくくなってるような、そんな気がする。


「青春」、生涯における春の季節、若く未熟で元気な青年時代のこと。こう書いてもそれは意志的、能動的、創造的で、どこか無鉄砲な感じを受けるものだ。仮に「青春」がそういうニュアンスのものであるのならば、最近一緒に仕事を組む若い連中からはそんな「青春」を感じられないのだ。まだ青春期であると思うのだが。


仕事が大変で日々磨耗しまくっているせいだからなのか?あれでみんな結構ナイーブで、円形脱毛症になったり腹を壊したりしてる。本人の未熟さと状況の過酷さが彼ら本来の意志や創造力を侵食し、能動的行動ができなくなってるのかもしれない。あるいは時代のせいか、もしかしたら波風立てず小さくまとまるのが美徳という新しい価値観でもあって、そのせいなのかもしれない。不感症なこちらに原因があるのか、最近彼ら後輩に「青春」を感じられないのだ。


ここ数年ハマってる落語の世界で、俺はここで言う「青春」の姿をよく発見する。


前座、二ツ目、そして真打と、修行と経験を重ね一端のプロになってゆくそのシステムが非常にわかりやすいんだとは思う。寄席は新人からベテランまでの噺家人生のある種の縮図を観れる会で、様々な「青春」を垣間見ることができる。少ないとは思うが前座の10代、それに20代、二ツ目の20代、30代、真打の30代、40代、そしてベテランの50代以上の噺家たち。確かに噺家全員に言えることではないかもしれないが、真摯に各自手前の芸を磨き鎬を削る姿は本当に素晴らしい。実際は仕上がった芸を発表する場にしか立ち会えないのであるが。打ち上げの席、うまくできなかったと落ち込む姿含め、俺はそこに「青春」をびんびん感じてしまうのだ。特に自分の芸の完成ぶりを決して信じていない現在40代の連中の貪欲さにおいては、最も濃い「青春」の「青」を感じてしまう。つまり「青春」とは年齢のことではないのだな。


書きながら思ったのだが、「青春」とはやはり意志的、能動的な姿のことを指すのだな。パンクやアティチュードと同義なんだと確信する。情熱と言っても差し支えないだろう。

自分が落語にのめり込んだのは、そんな他人の「青春」を垣間見て手前に喝を入れたいということなのかもしれない。


仕事の後輩連中とてみな自分なりの「青春」を探しているのだとは思う。美しい青春とかきれいな青春とかはきっとありはしない。最初から成功や合理の型を求めるのではなく、無我夢中で失敗するような、そんな形は歪でも内容の濃い青春時代を彼らには送って欲しいものである。


なんかオヤジの戯言になってしまったものの、悪いが俺は今青春のど真ん中であると奴らには言いたい。