先日の独演会で白酒師が口演した噺「鰻の幇間」の「幇間」とは太鼓持ちのことを指す言葉。では太鼓持ちとは何か?

それはつまり男芸者にあたるもので、お座敷遊びのときに酒や料理、遊びの「間」を助ける役目のことを言うらしい。「幇間」の「幇」には「助ける」の意味があって「間を幇ける」ということなのだとか。

太鼓持ちは一人で「間」をとっては駄目で、客と客との「間」、客と芸者の「間」もうまく捌かねばならない。芸者が芸をしてるときは邪魔をしてはいけないし、酒の席での噺もうまくないといけない。つまり「間」の達人でなければならなかったのだとか。

(以上松岡正剛氏「千夜千冊」より引く)


かつて勝新も言っていた、「間は魔に通じる」。つまり「間」を間違えると(芸に)「魔」が差してしまうというような意味のこと。名言であるが、この厄介な「間」というものがここ数年ずっと気になっている。


若い人の言葉で「KY」つまり「空気読めない」というのも「間が悪い」とほぼ同義だろうと思うが、こんな時代だからこそか(いや、昔からか)「間」はある意味重要視されてるような気がするのだ。

ちょっとした「間」を間違えただけでスムースにうまく行くものも台無しになってしまったりすることがある。落語含め演芸や演技の世界ではなおさら重要な問題だろうな。かの大巨匠、小津安二郎監督も台詞と台詞の「間」はきっちり16コマを守り(全部じゃないとは思うが)、あの独特な落ち着いたムードを獲得してたわけだしな。


仕事の場においてもそう。「間」は悪いよりいいにこしたことはないという意見が多勢を占めると思う。かくいう自分も「間」の悪い部下の行動、例えば客筋に対してだとか、オフィシャルの場で「間」の悪いときは注意したりする。そういうときの「間」の悪さとは、大体自分本意でまわりを意識していない、無意識から引き起こされたものが多いようだ。元より他人に無関心であるとか、人が嫌いとか、自己チューとかの場合だってあると思うが。


そこで往年のヒット曲(?)ブラックビスケッツの「タイミング」(懐かしいね)。その歌詞の中にこんな下りがある。流れがヘンになってきたな。。。


ズレた間の悪さも それも君のタイミング

僕のココロ和ます なんてフシギなチカラ


たまに間のワルさも 大事なんだね ”タイミング”

僕と君のシアワセ 笑いながらいこう


いわゆる「天然」のコの歌というのか、その人独自の「間」を称えた曲である。「間」、つまり「タイミング」は生来のものであって、かっちり「間」を計んなくても、ズレたっていいじゃないかという大らかな歌詞。転じて、こんな窮屈な時代、のんびり行こうやということなんだろうと思われる。O型の人が主人公?


そうなのだ。別にブラックビスケッツに言われるまでもなく、独自の「間」は大切で、みんな普段から窮屈に「間」を計って生きてたりはしないものだ。「間」なんて気にしなければいいのだ。


で、最初に書いた太鼓持ちの話に戻るのだが、彼らは「間」を見極めるプロで、その修行はただただ場に当たってひたすら「間」を読んでゆくしかない。お座敷で見事に「間」を捌いて贔屓からご祝儀をいただく。最早、芸事の域のことなんだが、ここで語られる「間」はやはりちょっと興味あるし習得したいとか思う。先に言っといてナンだが、個人的にはやはり「間」は気にしていたい。ブラックビスケッツ歌うところの「間」もよくわかることなんだけど、「間」を読めるタイプの人間でいたいなあ。


つまり「間」はコミュニケーションの問題のことだからだ。優秀な太鼓持ちの如く、「間」を自在に捌いていろんな局面でスムースにコミュニケーションをとりたい。ブログに書いてる内容だって、うまく「間」をとって(この場合は句読点の位置とか改行どころか)名もなき「忘れられた名文」にしたい。


なんか相変わらず自分の器の小ささを露呈させた記事になってしまったような感じがするが、「間」っ、そういうことだ。おあとがよろしいようで。。。