
彼とはかれこれ10年以上の付き合いになる。
もっとも、私が一方的に意識しているだけで、彼に私の認識は、多分ない。
彼の私への対応は理解できないほどに理不尽で、会うたびにというか、私が彼の存在を意識するのは、
敵意むき出しでけたたましく吠えたてられる時に限られている。
確かに彼は番犬に違いない。
私が駅に向かう途中に彼は住んでいる。
いつもではないけれど時々、彼は自分の存在を誇示するかのように吠えたてる。
何がそんなに彼の癪に障るのかわからない。
たかが、1,2秒、彼の領分かもしれないけれど玄関先を通り過ぎるだけなのに、彼は体中から声を張り上げ、牙をむき出しに吠えたてる。
当然ながら入ろうとしているわけではないし、
顔さえ向けていない。
ただ、通行人として門の前を通るだけの私に何故吠える。
彼の基準を知りたい。
毎日通っていても、災難に会うのは二、三か月に一度くらいだったろうか。
吠えられた後三日くらいまでは緊張していても、そのうちついつい忘れる。
だからいつも「いきなり」ということになって、衝撃が大きい。
突然の爆音に一瞬心臓は鼓動を忘れ、身体は飛び跳ねて朝の通勤で交通量が多い車道に転がりそうになる。
どうにか踏み止まって、周りを気にしながら動揺を見せないように彼の執拗な声に耐え、落ち着いた歩調で通り過ぎる。
弱みを見せてはいけない、と思っている。
他の人にも吠えるのだろうかと思うけれど、その現場を見たことはない。
仕事を辞めてから、その道を歩く事が減り、時間帯も変わったせいか、彼に吠えたてられることもなくなって、彼の存在そのものも忘れかけていた。
ある時ふっと思い出して、その玄関先をのぞいてみたら、彼は玄関ドアにくっつくように眠っていた。
そんな姿を見るのもはじめてだったかもしれない。彼は気配を感じて目を開けたような気がしたけれど、
興味なさそうに頭をあげることもなく、拍子抜けしてしまった。
初めて吠えられた頃から10年以上にはなる。
彼もすでに老犬で、もう吠えたてる元気はないのかもしれない。
と思うと、なんとなく感傷的になって、でもちょっと安心したりして、通るたびに覗き込むようになった。
彼はいたりいなかったりで、いないとどうしたのだろうと思い、いても吠える元気もないのだと勝手に心配する。
ある日、道路を隔てた反対側から、嬉しそうに玄関先で男の人にじゃれている彼を見て、
不思議な気がした。
私にはあらん限りの声を張り上げて吠えたてていたのに、である。
裏切られたように感じるのは、勝手な言い分。
番犬だろ!
その光景を見た後、私の意識の中からまた彼の事は消えていた。
と、数日後。
わぁんわぁんわぁんわぁん、と久方ぶりにけたたましく吠えたてられた。
おいおいおいおいおい。
一瞬、身を遠ざけ、彼を見る。
わかったよ。
私は不審人物さとふて腐れて言いたくなる。
十分老犬の筈なのに、私に対する認識だけは変わっていないらしい。
そして、つい最近、
いつもの道を歩いていると、犬の散歩らしいおじいさんが脇道から出てきて私の数歩前を歩き出し、少し歩くとふっとその一人と一匹は消えた。
「あ」と思う。
彼の家に入ったらしい。
控えめに、横目で門の中を見る。
優しそうな小柄な70代くらいの白髪のおじいさんの横顔と尻尾を振って嬉しそうにじゃれつく彼の姿を確認した。
彼のご主人らしい。
もしかしたら、いつぞやのあの風景はこれと同じだったかもしれない。
番犬は当然ながら、飼い主には従順である、と思う。
そして、また覗いたら、
彼は肩を落として好々爺の風情で門と玄関の間にしっかりと外を見据えて座っていた。
彼の小さな目と合ったけれど、吠えたてられることはなかった。
その対応につい頬がゆるむ。
やっと、私を認めてくれたか。
いやいや、ちょっとお目こぼししてくれただけかもしれない。
どっちにしても、また通ればわかるか。
頑張れよ、番犬。

